血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
最初に崩れていればどうなったか分からないが、持ち直したことで、自分の中にあったトラウマも消えた気がした。それが心の余裕であり、
「病院を見て回ってみよう」
とまで思えるようになったのだろう。
三十分程度病院内を見回ってみたが、由紀子には満足だった。三十分も病院内を一人で、しかも何事もなく歩くことができたのだから、トラウマもある程度までなくなったことだろう。
今から思えば、中学の時に看護師脂肪をすぐに断念したことを、
「諦めが早いからだ」
と思った理由が今では分からない。
どう考えてもトラウマによるものだったはずなのに、自分の中でトラウマの存在を認めたくないという意識があったからだろうか。
そんな思いを抱きながら、
「今の自分だったら、恭一の気持ちに寄り添えるんじゃないか?」
と考えていたが、それも気持ちに余裕が生まれた証拠だろう。
そんなことを考えながら病室に戻ってみると、恭一は目を覚ましていた。
「あら? もうお目覚めなんですか?」
と聞くと、
「うん、でも、自分では結構眠っていたような気がするんだよ。どれくらい眠っていたんだろう?」
と訊くので、
「そうね。三十分とちょっとくらいかしら? 一時間も眠っていなかったはずよ」
と答えた。
「由紀子ちゃんが来てくれてよかったよ。さっきまで唯子がいてくれたんだけど、どこかに行っちゃったみたいでね。見かけなかったかい?」
と言われ、由紀子は驚愕した。
――ええっ? どういうことなのかしら?
と感じた。
先ほどは自分のことを姉の唯子と間違えて話をしていた。それから一度寝て、目を覚ましたら、お姉さんと一緒にいたという記憶はあるんだけど、目の前にいる人を姉だと意識していたことを忘れている。しかも、自分のことを由紀子だという間違っていない感覚を持っているというのは、意識が正常に動作したということだろうか?
では、正常って何なのだろうか?
人が正常だと思う過去のことというと、それは、記憶の中の人物や出来事を思い出したことに対して、真実と思うはずである。実際には違っていても、その人の記憶として残っていれば、それがその人にとっての真実だということになるだろう。
真実が正常ということになるかと言えば、その点については由紀子には疑問だった。
なるほど、その人にとっての真実はその人を正常だと見えるのかも知れないが、正常というものは、あくまでも多数を正常とした場合に、少数派が異常ということになるというだけのことではないかと思えてきた。
異常と呼ばれるものが多数派を占めていれば、その世界では以上と思われることが正常であり、正常なことを異常として判断する。それが社会を回していく理屈であり、どんな主義や体制であっても、その理屈からは抗えないものと言えるのではないだろうか。
由紀子はそんなことを考えていると頭が混乱していた。ただ、先ほどの先生の話にあったように、彼の意識に抗ったり、否定しないようにしないといけないという思いを持って接するように考えた。
しかし、それはかなりの困難を思わせる。
なぜなら彼の中で三十分までの意識の中と今の意識の中で、明らかに違っているのである。しかもその違いが自分ということになっているので、自分がどのように接すればいいのかが、難しかった。
「ええ、分かった。お姉ちゃんに言っとくね」
としか答えることができなかったが。そう言ってしまうと、今度はスーッと自分の中で気が楽になってくるのを感じた。
なぜなら、今の状況が、異常か正常かと言われれば、正常に近いからである。
何と言っても、自分を自分として演じることができるのだ。
由紀子は、今の恭一の前では、いくら自分だといえ、
「演じる」
という意識を忘れないようにしていた。
相手が病人であるという意識があるからで、この思いは小学生の頃の意識から出ているものだと思っていた。
小学生の頃に入院していた自分は、まわりの人が入れ替わり立ち代わり見舞いに来てくれていたが、それはきっと、
「寂しい思いをさせたくない」
という意識があったからだろう。
つまり、あの時に自分を見舞いに来てくれていた人も、自分を寂しがらせないようにしようということで、一芝居打っていたのではないかと思った。
学校にいる時とは、皆様子が違っていたからである。
一応アレルギーがあることで、気は遣ってくれているようだったが、遣っている気は、演じているという感じではなかった。
自分が病院のベッドの中で、ほとんど動けないような状態を上から見下ろすことで、本当の芝居ができているのではないかと思えたのだ。
だから、今の由紀子も、自分という俳優を、
「演じていた」
のである。
子供にだって、自分を演じることくらいはできる、意外と子供の方が、もう一人の自分を分かっているというのか、いや、いくつかある自分の性格の中で、どれが本当の自分なのかを選定できないでいるから、演じることに長けているのかも知れない。
「多重人格」
という言葉があるが、そう思うと、子供の頃は、皆、多重人格なのではないかと思うようになった。
そのうちに一つの性格を自分のものにすることで、他の性格は忘れてしまったり、捨ててしまうわけではなく、っこれも記憶と一緒に封印しているのではないかと思うのだった。時々表に出てきて、他の性格が顔を出すように見えるのは、
「自分で封印していた性格を、演じているからなのではないか?」
と考えるからだった。
自分を演じているという意識は、たぶん誰もが感じていることだろう。しかし、演じているということを、
「異常なのではないか?」
と感じることで、演じるということ自体を自分の中から否定していると思えるのではないだろうか。
今の恭一を見ていると、意識がいくつもあるようで、目が覚める時、どれが顔を出すのか、分からないようだ、
もちろん、本人にも分かるはずがない。だが、本人が今意識していることが真実であり、眠ってしまうと、その意識がリセットされるだけではないかと思った。
「そういえば、お兄さまは夢を見られたんですか?」
と言った瞬間、由紀子はビックリした。
――お兄さま――
という言葉が飛び出したからだ。
本当は言ってみたい言葉が他にもあった。男兄弟のいない由紀子が兄がいれば行ってみたかった呼び方、それは、
「お兄ちゃん」
だった。
どうしてお兄さまという言葉が出てきたのか、由紀子は分かった気がした。それは、
「子供の頃から一緒にいて、まるで腕にぶら下がって慕っているような気持ちが頭の中にあればお兄ちゃんだったのだろうが、恭一さんはあくまでも先にお姉ちゃんが知り合って、私に紹介してくれた人。本当は兄として慕いたいのだが、義兄ということもあって、姉の手前のあり、なかなかお兄ちゃんとは言いづらい、それを言ってしまうと、姉に対して悪いという気持ちと、由紀子自身の思惑を知られてしまうような気がして、恥ずかしさもあって言えなかった」
と思っていた、
だが、
「お兄さま」
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次