短編集118(過去作品)
銀杏並木
銀杏並木
銀杏の葉が舞う大通りを、コートの襟を立てながら寒そうにしながら、足早に歩いている人を見かける。無言で歩いている人たちは、誰とすれ違っても気にならないかのごとくである。
石川恭平が島根藍子と再会したのは、そんな昼下がりだった。
車のクラクションに驚いて、思わず道路の方へ目をやったが、そうでもなければ、彼女に気付くことなく、ただ前を見て歩き続けただけだろう。
藍子の方も、一瞬こちらを見た。何かの虫の知らせだったのかも知れないと思うが、後になってその時のことを聞いても、藍子自身も分からないという。
身長が百八十センチ以上あって、どちらかというとスリムな恭平は、結構目立つタイプかも知れない。だが、それに比べて藍子は、身長が百五十センチ少々で、ぽっちゃり系の女の子、どこにでもいるようなタイプである。
「石川さんじゃないですか?」
やはり最初に気付いたのは藍子の方だった。見上げる瞳は若干潤んで見え、懐かしさから輝いた瞳から零れたものなのか、ただ単に寒さに耐えていたせいなのか、その時の恭平には分からなかった。
「島根さんじゃないか。久しぶりだね」
恭平は、完全に舞い上がっていた。まさか、寒風吹きすさぶ中を歩いていて、女の子から声を掛けられるなど、想像もしていなかったからだ。
まわりを見ると気になるのはアベックばかり、腕を組んでいたり、手をつないでいたり、――さぞや身も心も温かいことだろう――
と思いながら、羨ましさに心は訝っていた。まわりに目を向けようとしなかったのは寒さのせいだと言い聞かせてきたが、そんなまわりを見たくなかったというのが本音であった。
恭平は印刷会社に勤務する営業社員であるが、島根藍子と最初に出会ったのは、恭平の会社にアルバイトに来たという偶然がもたらしたものだった。
当時恭平は大学を卒業してすぐの頃、まだ営業といっても、研修期間中で、いろいろな部署がどんな業務をしているかを勉強中だった。事務の仕事をしていた藍子とは、二週間ほど一緒に先輩事務社員から講習を受けた。
立場こそ違えど、二人とも真剣に勉強していた。どちらかというとアルバイトの藍子の方が勉強熱心だったかも知れない。
恭平は事務の仕事をしながら現場や営業との連携についても勉強しなければならなかった。むしろ研修という意味ではそちらの方が重要だった。研修期間はまだまだ学生気分が抜けていなかったのも事実で、目移りしては怒られていたものだった。
目移りしたと言っても仕事上のことで、要するに集中力を持続できないところがあったのだ。ついつい営業や現場の人と話しこんでしまったりして、
「あなたには、これから営業や現場での研修が残っているんだから、そんなに焦って話さなくてもいいんです」
というのが先輩社員の言葉だった。年齢的には十分三十歳を過ぎている女性社員で、家庭があるという。さすがに詳しい年齢までは聞けないので見た目であるが、後から他の人に聞いてみると、結局誰もその人の年齢を詳しくは知らないようだった。
「なかなか聞けるものじゃなくてね」
もっともの話である。しかしこと仕事のことに関しては限りなく完璧に近い人で、少なくともまわりから後ろ指を差されることは絶対にないというから立派である。
藍子も最初はタジタジだった。何かあるごとに小言を言われて、
――辞めなければいいんだが――
と思ったが、結構我慢強い性格のようで、根気よく働いていると、いつの間にか二人が仲良くなっていた。すでにその時恭平の事務研修は終わっていて、営業研修に入っている時だった。
――表から見ているのと、実際に中に入っているのとでは違うのかな――
と感じたが、本当に二人は仲良くなっていた。
藍子の面倒はすべて見ているようで、少々ミスがあっても、すべて自分の責任として庇っているようだった。恭平はそんな先輩社員を見直さざる終えなくなってしまっていた。
アルバイトで入ってきた時の恭子は二年生だった。三年生になると大学の方が忙しくなるということで、アルバイトに来てからちょうど一年が過ぎていた。その頃には営業で飛び回っていることが多くなった恭平は、藍子が辞めてしまっていたのを知らなかった。
ショックだった。だが、いつかまたどこかで会えるような予感があったので、すぐに気にしなくなった。何の根拠もない予感だったが、時々虫の知らせを感じることがあることから、信憑性を信じたのだ。
藍子と一度コーヒーを飲みに行ったことがあった。あれは枯葉がゆっくりと落ちていた時期で、晩秋に近かった。だが、その日はポカポカと暖かく、昼下がり歩くには最高だった。
芸術の秋ということで、県立美術館に足を運んだ恭平は、久しぶりに精神的な余裕があった。仕事に追われている毎日が充実はしていたが、芸術に親しむ気分になれるものではない。
久しぶりに休みの日に晴れた。それまでは平日に天気がよく週末になると天気が崩れるという皮肉なお天気まわりになっていたが、秋も終わりに差し掛かった頃に天は最高の一日を与えてくれたのだ。
――こんな日はいいことがあるかも知れないな――
まだ研修期間中ということもあり、毎日に充実はしていたが、仕事を持っているわけではないので、仕事に充実しているわけではない。精神的に中途半端であった。
朝から近くの喫茶店でモーニングを食べる。トーストにバター、そして何よりもコーヒーの芳醇な香ばしい香りがマッチして、暖房の入った暖かい室内に充満していた。その雰囲気が学生時代から好きだった。
就職してからモーニングサービスを楽しむというところまでは行っていなかった。朝の喧騒とした雰囲気の中、喫煙者の多い喫茶店で慌しく食事を摂るのは、決して精神的に落ち着けるものではなかった。
馴染みの喫茶店が大学時代からあった。最近立ち寄っていなかったので、アルバイトの女の子も変わっているかと思ったが、
「恭平さん、お久しぶり」
と、いつもの乾いた声が飛び込んできた。聞き覚えのある声に安心感が漂う。
「やあ、久しぶりだね。まだいたの?」
おどけて言うと、
「まあ、ご挨拶ね。いつも元気に働いてますよ」
と、少し膨れて見せるが、それも可愛い仕草であった。
「それはよかった。会えると思っていたよ」
「よく言うわ」
そこまで言うと、すでに打ち解けていた。久しぶりに会ったという感覚は吹っ飛んでしまっていた。
こんな会話ができるのも、慣れているからである。馴染みの人となら結構話もできるが、あまり話をしたことのない人であれば、最初は少し尻込みする。恭平は人見知りする方であった。
だが、今の会話を聞いて、
「俺って人見知りするんだよな」
と言って、誰が信じるだろう。誰も信じるはずもない。だが、初めてこの店にやってきてからアルバイトの彼女、名前を美咲ちゃんというが、美咲ちゃんと気軽に話ができるようになるまでに五、六回は通ったであろうか。元々この店の常連になろうと思ったのも美咲ちゃんがいるからだ。コーヒーやトーストの香りに、美咲ちゃんの柑橘系の香水の香り、一見マッチしていないように思えるが、恭平には印象が強く残ったのである。
作品名:短編集118(過去作品) 作家名:森本晃次