短編集118(過去作品)
思わず、恐る恐るであるが、名前を呼んだ。だが、さとみは答えようとしない。それどころか、口元が怪しく歪み、見る見るうちに肌が白くなってくるように感じた。
「大丈夫か?」
自分がやっておいて、
「大丈夫か」
もないものだ。だが、そうでも言わないと、隆信にはどうしようもなかったのだ。
先ほどの後悔の念はさらに強まる。
――さとみに嫌われてしまったらどうしよう――
などというそんな段階ではない。その場から逃げ出したくなるような気持ちであった。何とか精神的にその場を持たせることが先決で、それにはまずさとみと話ができることが一番だと思っていた。
それでもさとみは話をしてくれない。こちらをじっくりと見ているだけなのだが、そのうちに顔に血の気が戻って来ているように思えた。
「あぁ」
さとみの声が漏れる。その声でさらに顔を見ると、恍惚の表情を浮かべている。先ほどの充血した目はそのままだが、明らかに普段隆信の腕の中にいるさとみに違いなかった。
さとみは目を見開いて隆信を見つめた。その目もいつものさとみだった。
最初に首に手を押し付けてからどれくらい経っているのか分からないが、さとみの表情を見ていると一瞬だったに違いない。
――このままさとみを愛してもいいんだよな――
自分に言い聞かせながらではあったが、すでに身体は本能で動き出している。的確にさとみが感じるところを捉えて離さないのもいつものことだった。そこから先はいつもの営み、お互いに高ぶった気持ちを身体に込めて、最後は隆信がさとみにいもちを注入することで終わりだった。
しばしの静寂が戻ってくる。憔悴感の中で天井を見ながら、
――先ほどの感覚はなんだったのだろう――
と考える。その日はいつになくさとみの身体が敏感だった。焼いた鉄のように熱かったようにも思える。元々興奮が最高潮に達すると、熱さなど気にならないはずなのに、その日の隆信も普段に比べれば興奮していたに違いない。
「よかったわ」
さとみは寝言のように呟いた。
――そういえば、さとみは寝言でもそんなことを口走る女ではないはずだ――
口ではなく、態度で示すことが多いさとみは、特に恥ずかしいようなことは口に出すことはなかった。しかも態度で示してくれる方が隆信にとっても嬉しいことで、相手の気持ちにウソがないと分かるからだった。そんなさとみが口に出したのだ。やはり、その日は少し違っていた。
隆信も最高潮の山を乗り越えて心地よい気だるさの中にいたが、普段であれば、満足できる状態のはずである。
だが、その日は違った。
――まだまだ満足できるって感じじゃないな――
横で軽く寝息を立てているさとみを見ていると、普段なら満足感に浸れるのに、その日はまた頭痛に襲われるのではないかという懸念を持ち続けていたのである。
そんな予感は悲しいかな的中してしまった。
「ううう」
月を見て変身するオオカミ男の話を思い出しながら、
――俺の顔もオオカミになっているんじゃないか――
と、そんなウソっぽい想像をしてみたりした。
――そんなバカな――
と打ち消すが、それだけに収まらなかった。
またしても腕はさとみの首に巻きついている。次第に腕に力が入る。まるで時間が戻ってしまったかのような感覚に陥っていた。
しかし先ほどの記憶は鮮明に残っている。今度は目を閉じることなくさとみを見つめている。
「ううっ」
軽く呻いたさとみの目が一気に見開いた。その目はすでに充血していて真っ赤である。
「さとみ」
声を掛けるが、それに呼応するかのように唇が歪む。それは苦しみからの歪みではなく、淫靡に見える歪みである。その表情に切羽詰ったものはなく、むしろ
――余裕があるのよ――
と言わんばかりの表情である。
その顔を見ていると、隆信の腕にもさらに力が入る。
――容赦しないぜ――
自分の腕が叫んでいるように思えたが、頭ではこんな恐ろしいことをしている自分を必死に収めようとしている自分がいるのに、それがままならないことに苛立ちを覚えているのだ。
――俺は一体どうなってしまったんだ――
さとみの表情は、
「もっと」
と言っているようにしか見えない。
苦痛の中に快感を覚える女がいるという話を聞いたことがあるが、さとみはそんな女なのかも知れない。そして、隆信自身も、苦痛を与えて、与えられた人が苦しんでいる表情に快感を覚える性格なのかも知れない。
しかし、さとみは苦痛を苦しんでいる様子がないことで、隆信にはどこか欲求不満が溜まっていくように思えた。こんな行動をしていながらおかしなものだ。しかも相手が恍惚の表情でいる時、
――俺がその恍惚を与えているんだ――
という気持ちになることで満足する隆信だったはずである。それを考えると、満足できない自分への納得がいくのだが、どうにもその時の心境を思い出すことは普段では難しい。
それから何度か同じようなシチュエーションがあった。蹂躙してしまうという心境は最初のその時だけだったのだが、それから以降はあくまでも「プレイ」の一環のような気持ちになってしまっていた。
――こんなはずでは――
隆信には少し苛立ちが残ってしまっていたのだ。
最後まで従順な女だった。偶然なのか意図的なのか分からないが、田舎に呼び戻された彼女は、しばらくして結婚したらしい。それが彼女を初めて抱いてから一ヶ月後のことだった。
百貨店で、
――彼女がほしい――
と思っている時、目を疑うかのごときで、目の前に立っているさとみを見つけた。小躍りしたくなるような懐かしさがあったが、
――かなり前だったんだな――
という忘却も事実あっただろう。
彼女の瞳は隆信を捉えている。ニッコリと笑ったその表情は昔のままだった。
「隆信さん」
煌びやかに見える彼女に声を掛けられると、やはり昔の彼女ではなかった。
彼女の中にあるものがすべて隠れているように思えた。
「木を隠すなら森の中」
という言葉があるが、さとみの場合は逆である。
「森を隠すなら木の中に」
以前、さとみと話した時に、そんな言葉を聞いた覚えがあった。確か抱き合った時だったように思う。
今なら思い出せる。
「あなたの中に私がいるのよ。そして私の中にはあなたがいるの」
と続けていた。
木の中に隠れているというより、同化してしまっていると言いたげである。そして、さとみのすぐ横に一人、子供が佇んでいる。その子はさとみと一緒にこちらを微笑んでいる。
「結婚したんじゃなかったのかい?」
「そのつもりだったけど、あなたが忘れられなかったの。あなたが私の中にいて、そしてこの子が……」
戻ってきてくれたさとみがいとおしい。今までに感じていたよりもずっといとおしい。もう、何も隠すこともない。隠れるものもない。頭痛もこれからはなくなるだろう。隠そうとするものは何もないのだから……。
( 完 )
作品名:短編集118(過去作品) 作家名:森本晃次