短編集118(過去作品)
最初は、言っている意味が分からなかった。結果的に自分ひとりが皆の意見に従わなくとも体勢が変わるわけではない。それをなぜにムキになって怒っているのかが分からなかった。
だが、次第に父親の気持ちも分かってくる。成長してくるにつれて、個性というものを気にし始めた隆信にとって、
「まわりがすることなんだから、構わないじゃないか」
という意見は矛盾を感じるようになった。そういえば、この言葉を口にした瞬間、一番父親の形相が激しく変わったのだった。
だが、父親もその時の隆信の気持ちも分かってくれたのだろうか。隆信は仲間はずれになりたくなかった。単に楽しみたいから自分だけが帰ることに悔しい思いをしたわけではない。複雑な心境になりたくなかったからだ。友達が皆泊まるというのに、一人だけ帰るというのは、自分が帰った後に、どんな話をされるかが気にもなった。
「付き合いの悪いやつだな」
口には出さないまでも、心の中で思っているかも知れない。
「堅物の親の息子なんだから、やつには融通は利かないだろうな」
とも思われているに違いない。それが怖かったのだ。まわりが気になっているうちはまだまだなのだろうが、子供にそんなことは分からない。ただ、屈辱だけが無意識に瞼を熱くし、涙を出させるのだった。
しかし、それまで仕事人間だった父が急変した時があった。後で母から聞いた話だが、父が友達の家に招かれた時のこと、その人は家庭では絶対的な人だったらしい。会社では人当たりがよく、いろいろな面で人に気を遣っている人だったので、家にお邪魔すると意外な光景だったことだろう。
さらに、そこでの子供や奥さんの態度があからさまに怯えているのが分かったという。
「家族を怯えさせる父親の存在が、他人から見るとここまで怖いものだとは思いもしなかったよ」
と話していたという。
その父も三年前に他界した。最後は安らかな表情だったのが印象的で、いつの間にか家族思いの父親になっていたことを今さらながらに思い知らされた。
「それでも、お父さんはかなり我慢したと思うのよ」
という母親の目は赤かった。そういう母親も同じように耐えていたのかも知れない。
父親が最後まで苦しみが抜けなかったのは、誰にも悩みを話せなかったからだ。何かを隠しているということは、自分に対しても、まわりに対しても苦しいことであることには違いないからだ。
その時だった。一瞬目の前が暗くなり、頭痛に襲われた。指先に痺れが走り、呼吸困難に陥り、
「はぁはぁ」
と息をするのも一苦労という状態だった。
隆信の異変をすばやく察知した母は、
「どうしたの、大丈夫?」
と声を掛けてくれたが、意識は遠のくばかりだった。背中をさすっていてくれたらしく、しばらくすると、意識が元に戻ってくる。
目の前が真っ赤に染まって見えてきた。汗が額から流れ落ちるのを感じる。
――気持ち悪い――
血液が逆流しているのではないかと思えるほど身体が熱くなっていき、吐き気を催してくる。無性に胸焼けが襲ってきて、誰かを殴りたい衝動に駆られていた。まさか、そばに付き添ってくれている母親を殴るわけにはいかない。どうしていいのか分からず、思わず母親を突き飛ばしてしまった。
「どうしたのよ、一体」
驚いて目を見張る母親が見えたが、もうすでに自分ではどうすることもできなくなってしまっている隆信は、とりあえず、自分のまわりに誰も寄せ付けたくなかった。
足が攣った時の心境である。
痛くてたまらない時ほど、誰にもその痛さを悟られたくないという気持ちになる時がある。痛くてたまらない時ほど、人に気にされると、余計に不安になるものだ。
痛みを知っているのは自分だけで、言い方は悪いが、まわりは知らない痛みのために、不安な表情をする。それはあたかも無責任にしか思えない。無責任な心配で、不安にさせられるのは一番嫌だった。
誰に文句を言っていいのか分からない。文句が言えないくらいなら、人から自分が離れるしかないではないか。それが痛みを堪えている時の秘訣である。
心配してくれる母親の表情を一目見ると、明らかに不安に満ち溢れていた。だがよく見るとその顔には怯えが浮かんでいるようにも見える。
怯えは震えとなって現れる。隆信自身も震えているので、同じ周期の震えであれば、相手が震えていることは一目瞭然。お互いに見ていて止まらない震えに怯えが重なったのだろう。かなしばりに襲われるのも感じた。
母親が怯えている姿を見ていると、その目に浮かんだものに見覚えがあった。それもかなり昔の記憶。
――そうだ、父親への怯えの目だ――
そんなに頻繁ではなかっただけに、印象深かったのだろう。だが、母親の怯えとは、隆信に父親を重ねて見ているということになるのだろうか。
父親への怯えは、小さい頃の隆信にもあった。だが、父親への直接的な怯え以外に、間接的なところで、父親を見る母親の顔への怯えもあったように思える。それが今まさによみがえったとは言えないだろうか。もしそうであれば、長い時を経て積み重ねられたトラウマになっているとも言える。
しばらくすると、かなしばりは解けた。永遠に続くかなしばりなどないという意識があるからだ。そういえば、隆信には躁鬱症の気があった。それは家族全員に言えたことかも知れないが、隆信のそれが重いのかどうなのかは、自分でもちろん判断がつくものではない。
躁鬱症になる時というのは、まず前兆がある。
――やばいんじゃないか――
と思い始めると、感じる色に変化が出てくる。
昼間だと、まるで黄砂が舞ったかのように黄色掛かった景色が全体を多い、すべてが黄昏ているように思えるのだ。
だが逆に夜の色は鮮明で、信号の青が昼間は緑に近い色に見えるものが、夜になると、真っ青に光って見える。赤い色も同じで、普段よりも明るく鮮明に見えることで、視力が上がったのではないかという錯覚に陥ったりもしたものだ。
実際に欝状態に入ると、最初こそ、
――このまま永遠に続くんじゃないだろうか――
と感じるのだが、三日もしないうちに、
――二週間も我慢すれば通り過ぎる――
今までの経験から割り出した二週間という期間。これが安心感を与える。実際に二週間が経ってみると、本当に欝状態が抜けているから不思議だった。
最後は完全に欝状態を忘れているくらいになっている。怪我をした時でもそうだが、忘れるくらいになって初めて痛みから解放される。痛みや苦しさに慣れてしまっているからなのだろうが、慣れた頃に治るというのも皮肉なものだった。
父親の性格が遺伝しているのではないかと感じたのは、高校になってからだった。
「お前は生真面目なところがあるからな。もっと遊び心を持っていいんじゃないか」
中学までの隆信を知らない友達に言われた。
高校に入ってからは、父親も丸くなっていたので、かなり精神的に余裕もあった。何よりも、父親がまわりに迷惑さえ掛けなければ、少々のことは気にしない性格になったことで、心の中の余裕が遊び心にもなっていた。
それを生真面目な性格と言われるのは、どこか、こそばゆい感じがするのだった。
作品名:短編集118(過去作品) 作家名:森本晃次