短編集118(過去作品)
「そこで診察してもらって鬱病と診断されたわけだね?」
「ええ、嘔吐や吐き気もあって、かなり苦しかったわね。でも、不思議なもので、鬱病という病名がはっきりした瞬間に、苦しさはスーッと抜けてきたの」
「安心したようなところがあったということかな?」
「きっと、心の中で、鬱病という言葉があったはずなのね。そこで病名を先生から宣告された時に、やっぱりって気持ちになったことで、スーッと力が抜けてきたのだと思うのよ」
その気持ちも分からなくない。特に精神的な病気の場合は、厄介ではあるだろうが、ある程度予測のつくものではないのだろうか。特に聡子のようにいつもいろいろなことを考えている人には、自分の身体の変調も分かってくるものなのかも知れない。
鬱病になった時の心境を思うと、自分が苦しかった時期を解消すると、後は躁状態に変わってしまう。それまでの苦しみはまったく忘れてしまったかのようで、苦しみまでが楽しさだったような錯覚に陥るのだ。
もちろん、恭平だけのことだろう。他の人はまた違った感覚に襲われるに違いない。簡単に鬱病といっても、人の数だけ鬱病も存在していると思っている。
聡子に起こったような症状も、少なからず感じたこともあった。
――このまま死んでしまうかも知れない――
とまで思ったほどだったのだが、気がつけば苦しみは消えていて、胸の中に誰にぶつけていいのか分からない憤りと、
――鬱状態にあることを、人に知られたくない――
という思いだけが支配していた。
時々夜になると足が攣ってしまうことがあったが、その時によく似ている。苦しいのだけれど、
――誰にも触られたくない――
と思うのだ。触られたり、心配させられるような表情をされてしまうと、余計に不安になる。苦しい時は自分の感覚に自身がもてないので、まわりの表情や感情を信じてしまい、ただでさえ不安な心境を煽ってしまうのが怖いのである。
聡子とはその日、少しだけ話をした。美術館を出ると、近くに喫茶店があるが、そこに誘うとためらいもなくついてきた。久しぶりに会って話をしているのに、
「まるで昨日も一緒にお話したような気がしますわ」
と言ってくれたのが印象的だ。
「俺もだよ」
返す言葉にウソはない。確かに忘れかけていた女性であり、一度は自分とは住む世界の違う女性だと思った人だったが、こうやって再会して、それまでの波乱万丈な人生や、気持ちの移り変わりを惜しげもなく話をしてくれるということに感動を覚えないわけにはいかなかった。
喫茶店は、昼下がりの明かりをいっぱいに浴びる場所にあって、設計段階から光線の具合には気を遣っていたに違いない。いっぱいに浴びることができる光なのに、眩しさを感じない。実にうまく設計されている。
窓際に座ると、県立公園の池が一望できるようになっている。池の表面は若干眩しいが、紫外線をカットできる特殊なガラスが窓一面に張り巡らされているので、適度な明るさを楽しむことができる。
座ってから話をするまで、二人の視線は池にあった。眩しさを感じない池の表面を見ていると、目が離せなくなったと二人とも同じ思いではないだろうか。
聡子の目を見ると、瞳が輝いているように見える。唇に引かれたルージュが、さらに赤く光って見えるのは、反射した光の悪戯ではないだろうか。
それに気付いたのか聡子は恭平の方を振り返る。そして、唇が歪んだかと思うと、ドキッとする表情を浮かべた。
――前にも見たような――
と感じるが、明らかに今の方が大人の色香を醸し出している。
その後会話が途絶えた。何を話していいのか分からない。喫茶店に入ればいろいろ募る話もあるだろうと思っていた恭平は、完全に舞い上がってしまっていた。
――何かを話さないと――
こんな思いも、久しく感じたことがなかった。何かを話さなければいけないというプレッシャーに押しつぶされ、結局何も話せないまま別れた女性もいた。
――付き合っていたと言えるのだろうか――
その程度の関係だった。
だが、その女性は悩みを抱えていて、いつも悩み相談をしていたので、彼女の方が恭平を兄のように慕っているだけだったのかも知れない。そんな女性に恋心を抱けるほど、恭平の神経は図太くなかった。
恋人一歩手前という関係が一番危ないのかも知れない。逆にそこで終わってしまった方が幸せなことだってあるだろう。深入りしてしまって、相手のすべてを抱え込もうとする男性であれば、押しつぶされることもあるに違いない。それは実に辛いものだ。
男同士の間での悩み相談は、そのまま友情に繋がるであろうが、女性からの悩み相談は相手が慕ってくれる気持ちがどれほどのものかを見極める必要があるだろう。
慕ってくれる女性は、自分に対する依存なのか、男性そのものに対する依存なのかを考えないと、とんでもないことになる。
――男が女を求め、女が男を求める――
自然の摂理であるが、どこまで感情移入してしまうかによって、男も女も変わってくる。会話が大切だということは身を持って感じなければならないだろう。
久しぶりに会うことができて、話も聞くことができた。これからも会う約束をしたが、それは恋人としての第一歩と考えてもいいだろう。ただ、依存に対してだけは気をつけなければいけない。恭平は肝に銘じていた。
昼下がりの公園を抜けると、急に寒気を催してきた。
「風も吹いてきたな」
銀杏並木を見上げながら歩いていると、誰かに会えそうな予感があった。
頭に浮かんだ顔は、島根藍子。なぜ頭に浮かんだのか分からない。
だが、その日の出来事のすべてが、島根藍子に会えるのではないかという気持ちを表している。根拠があるわけではないのだが、あまりにも唐突な出会いへの期待と悦びに満ちていた。
やはり虫の知らせとはあるものだ。それまでの出会いを忘れてしまうような衝撃があった。予感があったにも関わらずこれだけの衝撃を感じるというのは、言葉では言い表せない偶然が頭の中に渦巻いているからに違いない。
今まで一番好きになりかかった相手、それが島根藍子だった。ほとんど話をしなかっただけにその思いもひとしおである。
当時、藍子には付き合っている男性がいるという噂を聞いたことがあった。それが恭平の中で一番引っかかっていた。
今まで好きになった人に誰か付き合っている人がいれば、すぐに気持ちが萎えてしまっていたはずなのに、藍子にだけは未練が残っていた。急に辞めてしまっていたことが余計に消えないものとして頭の中に残った。
記憶喪失になった人も、何か頭に残ってしまったものが引っかかって、思い出せないのだということもあるようだ。だが、逆にそれを解決してしまえば、スムーズに行く。恭平も、自分の中にわだかまりとして残ったものが、藍子が辞めてしまってから後に起こったことであることは分かっていた。
それが今日解消されようとしている。
昼下がりに向かう前の時間は、今までの人生の集大成に近いものがあったのかも知れない。用意された舞台に、上れる瞬間を感じていた。
作品名:短編集118(過去作品) 作家名:森本晃次