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短編集118(過去作品)

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 と思うほどだ。しかし、表の雰囲気と完全に隔離することで芸術の世界に没頭するには、ここまでの効果演出が必要なのかも知れない。
 思わず大きな声を発したくなるが、声はきっと響くだろう。歩いている革靴の音、パンフレットを捲る音、明らかに乾いた音だけがこの贅沢な空間の中で、音としての世界を支配している。
 その日、恭平は革靴を履いていた。想像していた空間に想像通りの音が響いている。すでに空間の住人として、入った瞬間から魅入られてしまったように思えてならない。
 中に入ると、皆一生懸命に絵画を眺めている。有名な絵にはさすがに鑑賞者が集中しているが、見慣れているせいもあってか、恭平は他の絵に興味を示していた。
 この日の陳列は絵画は絵画、彫刻は彫刻と別れているわけではなかった。想像していたのと趣きが若干違う。
 ゆっくり眺めていると、彫刻には空間で止まっている瞬間を捉えることができるような気がした。音がすべて吸収されるかのような錯覚に似ている。
「カツッカツッ」
 柑橘系の香りで、背が高く、セミロングの髪には似合いそうな気がしたからだ。
 完全に妄想なのに香りがしてきそうに感じるのは、空気の流れを感じているからである。
 腕を後ろに組み歩きながら見ていると、背伸びして見る絵画と、背を屈めるようにして見る彫刻とがバラバラにあるため、腰が痛く感じられた。
 じっくり見ながら歩いていると、前を歩く集団にぶつかってしまった。自分ではゆっくり見ているつもりだったのに、前の集団はさらにゆっくり見ているのだった。
「あ、すみません」
 横を見ると、一人の女の子が頭を必死に下げている。顔を上げられないのか、下げている頭が恭平の肩に当たっている。
「あ、すみません」
 また謝っていると、今度は腕に当たった。恭平はおかしくなって思わず笑ってしまった。
「ははは、大丈夫だよ。そんなに気にしなくていいんだからね」
 というと、安心したかのように頭を上げた。
「あ」
 思わず叫んでしまい、そこが美術館であることに気付くと、口をつぐんだ。
「あ、お久しぶりです」
 安心した表情は、笑顔に変わった。聞き覚えのある高い声はまさしく聡子だった。
「山根さんじゃないか」
「本当にお久しぶりです。お元気でしたか?」
「ああ、何とか元気だったけど、ずっと気にしていたんだよ」
 というと、照れた表情を浮かべると、
「ありがとうございます」
 山根聡子、彼女は大学時代に一緒だった女の子で、一時期付き合うのではないかと思うことがあったが、同じサークルで活動中にいずれ告白しようと思っていた矢先、彼女は退部していった。
 退部していった人を追いかける気にもならずに、それっきりになっていたのだが、本当は、
――告白しなくてよかった――
 と思っていた。
 彼女は確かに魅力的だった。だが、そこには魔法のような魅力があり、男性を引きつける何かがあったようだ。
「魔性の女」
 と呼ばれる女性がよくドラマなどに出てくるが、彼女の場合は少し違う。妖艶な雰囲気はまるでなく、あくまでも子供のようなところがあるのだ。
 甘えん坊なところがあり、サークルでもマスコットのような女性だった。だが、顔は大人っぽく、色も白いので、喋らなければ
――大人の雰囲気を醸し出す女性――
 という印象を受けるのだ。
 だが、喋り始めると、丁寧すぎる言葉遣いに、甘えん坊のような抑揚が、男心をくすぐる。しかも、顔の雰囲気とのギャップがたまらないという男性も多かった。何を隠そう恭平もそうだった。
 しかし、彼女が美術館に現れるとは思わなかった。どちらかというと遊園地が似合うような雰囲気で、笑顔になると、大人の雰囲気が急に子供の顔に変わってしまう。そんな女性にはなかなか巡り会うことはないだろう。
 美術を一通り見て回ると、最後に売店があり、無料休憩所がある。売店ではダリのグッズが売られているが、昔、画集を持っている友達に見せてもらったことがあるので、見てみたが、さすがに高くて手が出ない。
 売店の横にある自動販売機でコーヒーを二本買って、一本を聡子に手渡した。
 さすがに展示室では話ができないので、休憩室ではゆっくりと話せるだろう。主婦の団体が大声で話をしているので、こちらも気を遣うことはない。
「あれからどうしていたんだい?」
 思い切って恭平は聞いてみた。
「あれから」
 というのが、いつを差すのか、彼女にも分かっているはずである。
「あれから、実は病気になっちゃいまして、入院していました。療養が必要だったので、田舎に引きこもっていましたので、卒業も一年遅れたんですよ」
 座って落ち着いて話をすると、さすがに大学時代に比べるとかなり落ち着いて見える。病気をしたというが、それも影響しているのかも知れない。
「大きな病気だったのかい?」
 少し恥ずかしそうに顔を下げたが、すぐに意を決したかのように顔を上げ、
「実は、鬱病だったんです。付き合っていた彼氏がいたんですけど、その人が次第に冷たくなっていって、話ができない雰囲気に次第になってきて、私自身が落ち込むようになったんですね」
 聡子には、学生時代からそんなところがあった。自分の気持ちを人に打ち明けられるようなしっかりした性格ではなく、見ていて、いつ折れそうになるか分からない小枝のような感じだった。
 まさか、聡子に彼氏がいたとは知らなかった。
「私が退部した時、ちょうど彼氏と話ができなくなっていた頃だったんですね」
 何ということだ。もし、あの時告白していれば、恭平は完全にピエロになるところだった。あの時は、
――なぜ、こんなことになるんだ。何とも間が悪いな――
 と思っていたが、間が悪いのではなく、不幸中の幸いだったのだ。
「それは大変だったんだね」
「ええ、彼がまた嫉妬深い人で、私にはいろいろ言うんです。猜疑心が強い人なんですね。でも、それでも私はよかった。私だけを見ていてくれていると思っていたので……。でも実際は違っていたんです。彼はいつの間にか他に好きな人を作っていたんです。私には許せませんでした」
「それはひどい話だね」
「ええ、でも、彼は構ってほしかったらしいんです。私は彼のそばにいるだけで満足という感じだったんですが、彼はそれだけでは満足できなかったみたい。いろいろな話が豊富な人がよかったんでしょうね。きっと私は古風な女なんです」
 古風というのは、決して悪いことではないだろう。人によっては、古風で大人っぽい女性が好きな男性もいるだろうし、何よりもいろいろ口を挟まれたくない人には何とも都合がいいのではないだろうか。
 どちらかというと、あまり飽きっぽくない性格の恭平だが、いつも同じ会話をしていたり、逆に派手な恰好を印象付ける人には、最初はいいのだろうが、すぐに飽きてしまうのではないかと思えてくる。聡子はあまり話さないタイプなので、飽きっぽい人には却ってすぐに飽きられてしまうのかも知れない。
 さすがに、口に出して言えないが、今の聡子にはそんなことは百も承知ではないだろうか。精神的な病に陥り、それを克服するということは、傍から見ているよりも結構大変なことに違いない。
作品名:短編集118(過去作品) 作家名:森本晃次