間隔がありすぎる連鎖
被害者が誰かに追い詰められて、いよいよ殺されるということになり、相手が誰なのかも分かり、このままでは自分が殺されるということも分かるとしよう。
何をおいても考えるのは、
「どうすれば、殺されずに済むか?」
ということを全力で考えることだろう。
殺されると分かってしまった場合に、ひょっとすると、自分を殺す犯人が憎らしいので、
「どうせ死ぬなら、相手も巻き沿いにしてやろう」
と思って、書き残すこともあるだろう。
しかし、普通の殺人事件の場合で、そんな余裕がどこにあるというのだろう?
相手だって、自分を殺すことは、ある意味覚悟の上のことであり、警察に捕まりたくもないと思うに違いない。必死で自分を殺しにくるだろうから、死ぬ時は苦しむことになる。断末魔の状態で、どのようにしてメッセージを残せるというのだろうか?
さらにもう一つの問題は、
「犯人に分からないようにしながら、他の誰かが見れば分かる」
というような暗号でなければいけないということだ。
犯人に、
「これはダイイングメッセージだ」
ということが、バレてしまうと、自分を殺した後で、それも一緒に消してしまうはずである。
いかに犯人に気づかれないように書き残すかということも必要になってくるので、実際に殺されようとしているそんな断末魔の状態で、書き残すことなどできるはずもない。
もしできるとすれば、どこかに閉じ込められて、死ぬまでに時間がある場合だけであろうが、そもそも時間があるのであれば、その間に、必死になって市から逃れる方法を考えるのが先決だと思える。
それでも死から逃れることができないと分かった時、いくら時間があるからと言って、確実に市が迫りくる中で、自分の精神状態はどのようなものであろうか、
「殺すなら、一思いにやってほしい」
と考えるかも知れない。
徐々に死の恐怖が襲い掛かってくるわけで、ピークに至れば、発狂しかねない精神状態であろう、そんな状態で、果たしてダイイングメッセージを残せるだけの精神的余裕があるだろうか。
犯人がそんな時間的余裕を作るというのは、決して優しさなどからではない。むしろ相手を徐々に苦しめて、苦しみぬいて殺すという、究極の憎しみから来ている者だろう。それを思うと、恐ろしさから思考回路は早い段階からマヒしてしまい、自分がどんな精神状態で死を迎えるかなどという思いが及ぶはずもない。
そうなってくると、被害者である自分は、死を待つだけの考えることもできない、人間と呼べるかどうか分からない存在になっているのかも知れない。
そんなことを考えていると、ダイイングメッセージというのは、前述の交換殺人のような、
「理論的に不可能」
という考えではなく、
「確かにこちらも、理論的な矛盾を抱えてはいるが、それ以前に物理的に不可能だ」
と言えるのではないかと思うのだった。
探偵小説がフィクションだというのは、そのあたりからも言えるのではないかと思う。特に謎解きやトリックなどを全面に押し出した、
「本格派」
と、言われるような探偵小説であれば、実際の犯罪としては成立しないような場合が多い。
まだ猟奇的な殺人の方が、リアルに近いのではないかと思われるくらいで、どこかホラー色があるから、探偵小説としても、面白く読めるのであろう。
「事実は小説よりも奇なり」
という言葉もある通り、確かに現実でも小説並みの奇抜な犯罪が行われることもある。
しかし、それらはどんなに策を弄したとしても、小説とまではいかない。なぜなら、小説は登場人物を作者がすべて掌握していて、内容をいかようにもできるからだ。
しかし、事実においては、人それぞれに考え方も感じ方も違ってくる。最初の計画通りにいかないことが多い。逆にそれが、事件を複雑にすることがあるからなのか、そのせいで、
「事実は小説よりも奇なり」
という表現になるのかも知れない。
そうやって考えると、実際の犯罪は生き物であり、小説には絶対に適わない部分もあることだろう。
小説と事実とでは、そもそも次元が違っているので、単純に比較することなどできるはずもないのだろうが、探偵小説、ミステリーというジャンルの小説がある以上、どこかに接点はあるだろう。
小説を模倣して、実際の犯罪に利用するということもあるのだろうが、どこまで利用されているのかを考えると、不可能な部分もあるだろう。
前述の交換殺人であったりダイイングメッセージなどというものは、最初から探偵小説の中で生まれたものなのか、それとも実際に起こった犯罪の中での一こまを、小説として継承されていたものなのか分からない。
殺人事件というものは、練りに練った犯罪ほど、どこかにほころびが生じ、そこを手掛かりに事件を歩も解いていけば、意外と簡単に分かるものだという小説での格言もあったりした。犯罪計画は、理論的に組み立てられ、できた計画を全体から見て考えた時に、綻びや矛盾がなければ、それを犯行に使うことだろう。しかし、どこかに穴があり、その穴から犯行が露呈するなどという発想は考えないだろう。
要するに、
「犯罪を考える側と、解く側とでは、目の付け所が最初から違っているのだ」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味で、完全犯罪というのはありえない。
逆に、
「小説やドラマにはあるが、犯罪計画としての小説にはあまり見かけない」
というものもあるのではないだろうか。
小説にあるとしても、それは犯罪計画というものではなく、犯人の心理であったり、犯人側に視点を置き、犯人側に同情的な考えとして、小説を描く時にあることであり、そこには、
「犯罪計画」
というものがないという理屈であった。
それは、いわゆる法律上の話であり、
「違法性阻却の事由」
と呼ばれるもので、
「違法性を否定するもの」
であり、その種類として、三つが考えられる。
「正当防衛」
「緊急雛な」
「自力救済:
などがある。
正当防衛というのは、相手が自分を殺そうとしている相手がいた場合、何もしなければ殺される時に抵抗し、それで相手を殺してしまった場合などである。
緊急避難というのは、例えば、客船に乗っていて、船が座礁や嵐に巻き込まれて沈没の憂き目に遭ってしまった場合、生き残った数名が救命ボートに群がった時、五人の定員のところに五人以上が来た場合、五人目以降を見殺しにしないと、自分たちまでも一緒に共倒れになってしまうという時、五人目以降を助けなくても、それは罪に問われないというものである。
倫理上の問題は別にして、刑法上は罪に問われないというものだ。
実際には、正当防衛や、緊急避難を装って可燃善犯罪を目論む人はいるかも知れないが、なかなか小説やドラマでは、見ることができない。
やはり、倫理的にあまり許されないことなので、テーマとしての映像化などは難しいということなのか、まったくないとは言わないが、映像化となると難しいのではないだろうか。
昭和以前であれば分からないが、今の時代では放送禁止用語も厳しくなっていることだし、倫理的に問題のあるおのは、難しいのではないだろうか。
探偵小説を書く人が一度は目指してみたいものは、きっと、
作品名:間隔がありすぎる連鎖 作家名:森本晃次