間隔がありすぎる連鎖
今度の放火が悪質であることを一番最初に分かったのは、この会社の人間だった。何か盗まれて困るようなものがあるわけでもなく、ここが燃えたからと言って、誰が得をするわけでもない。
しかも、愉快犯が狙うような立地でもないのに、なぜ苦労して中だけを放火するようなことをするというのか?
犯罪享楽者が、愉快犯である自分を宣伝するかのように思える犯罪を、なぜこのようなところで行うのかが分からなかった。
放火なのだから、どんな愉快犯であっても、情状酌量などありえない。実刑は免れないだろうし、それを思うと、犯人にとって、何のメリットがあるというのか。
メリットがあるとすれば、犯罪が大きくなっていないということくらいで、それならわざわざ危険を犯すこともないだろう。
考えれば考えるほど矛盾だらけの犯罪であるが、その理由が何となく分かったのは、火が完全に消えてから、火元の確認をしているところからだった。
「分かっていると思うが、鎮火はしたが、まだ燻っている火があるかも知れないので、十分に注意すること、燻っている火を見つけたら、自分だけで消そうとせずに、皆に声をかけること」
というお達しの元に、火元が捜査されたのだった。
捜査を初めて、十五分くらいしてからだっただろうか、倉庫中央あたりを捜査していた人が、
「うわっ」
という奇声を発した。
「おいおい、どうしたんだ?」
と言って、その声を発したやつを見ると、まるで幽霊でも見たかのように身体が硬直していた。ガスマスクをしているので顔の表情までは分からなかったが、明らかに尋常ではなかったようだ。
彼が近づいて、その人が見つめている一点を見ると、自分の場で息を呑み込み、一瞬固まってしまった身体を動かすことができないのではないかと思うほどだった。
思わずその場から逃げ出したいような衝動に駆られたが、さすがにそれもできない。身体が動かないのだ。
それでも、声だけは出るようで、
「なんだ、一体これは」
と声を掛けたが、最初に発見した人の方が、自分とはいかにショックの度合いが違うのかが分かる気がして、それ以上聞くことができなかった。
「おおい、ちょっと来てくれ」
とまわりに声をかけるのが精いっぱいで、さすがにまわりも、一人だけではなく、二人までもが固まってしまったことを尋常なことだとは思えなかった。
人が集まってくると、それぞれに皆怯え方に違いがあった。
そこに転がっている真っ黒焦げとなった物体が何であるか、きっと皆分かったことだろう。もう悲鳴を挙げる人はいなかった。息を呑む人はいたが、悲鳴を挙げると、三度目になるというのが分かっているのか、なぜか声を挙げる人はいなかった。
そして、誰かが一言、
「おい、こっちにもあるぞ」
と言って、少し離れたところにも同じように転がっている真っ黒焦げの物体を見つけたのだ。
それはもう誰が見ても死体であった。なぜこんなところに死体が。しかも、二体もあるのか不思議だった。誰か一人が、
「自殺じゃないのか?」
と言った。
なるほど、自殺であれば、放火をした理由も分からなくもない。まわりから火をつけたわけでなく中からの火だったのは、わざと中で火を起こしたわけではなく、中からしか起こせないからであって、この場所を選んだのも、他の人に迷惑をかけないように死のうという意思からではないだろうか。
しかし、自殺をして黒焦げになってしまうと、自分が自殺をしたということが分からないかも知れない。このまま建物と一緒に燃え尽きてしまうと、自殺をしたということ自体、分からない可能性だってないとは限らないではないか。
確かに自殺をする人の中には、断崖絶壁から飛び降りる人もいるが、その人は皆遺書をの残して、飛び降りた形跡を残している。だが、
「待てよ?」
と考えていた。
それは、表に出ていることだけを見ているからそう思うのであって、実際にただ飛び降りただけで、そこで死んだかどうか分からない人もいるのではないか。行方不明のまま、失踪宣告を受けた人の中には、何も残さず、死体も見つからずに人知れずに死んだ人だっているかも知れない。
見つからないのだから、それらの人が、死んだということを考える方がどれほど自然なことなのか、ちょっと考えれば分かるというものではないだろうか。
動物の中には。自分の死期をわかってしまうと、人に死ぬところを見られるのを嫌がるものもいるという。飼い主から離れて、人知れずに死にたいという心境は、いつも寂しいと思っている人には想像もつかないものなのかも知れないが、これは人だけではなく動物にも言えることで、
「生あるものは、生まれてくることを選べない。死ぬことすら選ぶことはできない。では死ぬことが分かっているのであれば、死に際の自由くらいはあってもいいのではないだろうか?」
という考え方である。
本当に死ぬというのが分かるのかどうかは、甚だ疑問ではあるが。死を意識する人にとって何を考えるのか、実際には想像もつかない。
普通に生きている人は、死ぬということすら考えるのも嫌に違いない。
「不吉なことをいうなよな」
と死の話をしようとする人をそうやって窘める人は、きっと生きるということに対しての執着はかなりのものであることには違いないのだろう。
そんな人が、いや動物全般と言ってもいいのだが、まわりに死ぬところを見られながら逝きたいと思うのだろうか、その時捜査員の一人の脳裏に変なことが浮かんでいた。
「俺なんか、足が攣る時には足が攣るのが結構分かるものなんだけど、その時はまわりの人に知られたくないと思うことが多いんだ」
と感じていた。
なぜなのかというと、その人の理屈としては、
「自分が苦しんでいるのを、何か痛々しそうに見られると、余計に痛いと思うようになるものなんだ。きっと相手もその人が苦しんでいるのを見て、自分もその痛みを想像するんだろう。その時に苦み走った表情になり、それが苦しんでいる人にも伝わる。だから、まるでその変な想像をしている人の苦しみまで自分が背負っているような気がして、それで余計な痛みを感じてしまうのが嫌で、それだったら、苦しむなら、人のいないところでって考えるのも無理のないことだと思うんだよね」
というに決まっている。
苦しみというのは、誰も共有しているものではないと思われがちだが、人が苦しんでいると、えてして自分もその苦しみを分かち合っているかのように思えてくる。その思いを誰が知っているというのか、考えたくないと思うことで、この時ほど孤独をありがたいと思うことはないだろう。
人と一緒にいないと寂しいのだが、死ぬ時は一人で死んでいくのだ。それが運命だとすれば、人が苦しむのを見るのが嫌だという理由も分からなくもないだろう。
目の前で黒焦げになっている死体が本当に自殺かどうか分からないが、二体の死体があったということで、自殺だとすれば、心中というのが最初に頭をよぎる。
しかし、本当に心中なのであれば、二人は抱き合っての心中になってしかるべきである。少なくとも結構距離は離れているので、自殺であるのは考えにくい。
作品名:間隔がありすぎる連鎖 作家名:森本晃次