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短編集117(過去作品)

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 クライマックスに向うと、いつもなら、まわりの気配をまったく感じることもなく一気に最後まで読んでしまうのだが、いつもと違う雰囲気を感じたのもその時だった。
――何となく視線を感じる――
 と思い、頭を上げた。いつもなら、表を見るのだが、感じた視線は店の中からだった。自分の斜め前くらいからの視線で、文庫本に集中していれば、視線を感じることがあったとしても、それがどこからかすぐには分からないはずだと思っていた。だが、その時に感じた視線は、頭を上げる前から、斜め前より浴びせられていることは分かっていたのだ。
 チラッと顔を上げる人もいるだろう。だが、坂上はそんなことができる性格ではなかった。気になったことがあれば、集中しているものを放っておいてでも、そちらに神経を集中し直さないと気がすまない。頭を上げると、感じた視線を先に向って、頭を上げた。
 そこにいるのは、一人の女性だった。坂上がぶつけた視線にひるむことなく、彼女も視線を浴びせてくる。下を向いている時とどちらが熱い視線なのか分からないが、坂上はドキッとさせられたのには違いない。それでもひるまなかったのは、相手が女性だと思ったからだ。
 目が合った相手は、表情を変えない。かといって、無表情というわけではなく、最初から目で何かを訴えるような視線だったのだ。視線が熱いということ自体、何かを訴えているから感じることなのだ。それに目で答えているつもりの坂上だったが、相手の女性も表情を変えないことから、目だけでの会話が成立しているとお互いに感じているのではないだろうか。
――以前に、どこかで――
 人の顔をおぼえるのが苦手な坂上は、そこまで思い出すのがやっとだった。見た覚えがあるということを思い出すだけ、印象的な表情に女性である。
 唇が濡れて光っている。それほど赤い唇ではないので、リップクリームで光っているようだ。真正面から見ると気づかなかったが、少し横を向くと、目の周りにアイシャドウを塗っているのが分かった。目立たないところに施された化粧が、さりげなさを誘って、綺麗に感じさせられた。
 最初感じた上品さにあどけなさが加わったことで、どこかで見たことがあると感じたのかも知れない。今までに綺麗な人への意識は強くなく、可愛らしい人を好んでいた坂上にとって、今まで自分が綺麗な人への意識が薄かったのは、気取ったところを好きになれないからだと感じさせるに十分だった。
 赤いコートが椅子に掛けられている。赤い色は坂上が昔から好きだった色だ。彼女ができたら、ぜひ着てほしいと思う色でもあり、月並みに情熱の色だという意識を強く持っていた。
 喫茶店の中での音楽がクラシックに変わっている。ジャズとクラシックではクラシックの方が好きな坂上には嬉しかった。ジャズはどこかベタな感じがして、暑さがそのまま伝わってくるように思えたからだ。
 夏の暑さに弱い坂上は、ジャズの音楽に耐えられない時がある。淫靡な香りがすると思っているのは坂上だけだろうか。
 誰かを待っているのかと思っていたが、誰も現れる気配はない。時々表を見ているようだが、誰かを待っているわけではなさそうだ。
 つつましげにコーヒーを飲み干すと、紙ナプキンで口元を拭うが、唇から光っているものが取れることはなかった。軽く、口にあてがっただけのようだ。
 おもむろに席を立ち、レジへと向かっている彼女の後姿を見ていると、芳醇な香りが漂ってくるのを感じた。席に座るまでも、席に座ってからも感じなかった香りである。
 このまま、もう二度と会えないと思うと、焦りのようなものが湧いてきた。彼女だから感じたのか、その時のシチュエーションがそう感じさせたのか分からないが、明らかに気持ちの動揺を誘っている。
――表はきっと寒いだろうな――
 赤いコートを羽織った彼女を見ると、表の暗さがさらに深く感じられる。コートの赤は決して明るさを醸し出す色ではない。暗さの中で黒ずんで見えるかも知れない。
 レジから表に出た彼女は、バス停まで行くと、バスに並んでいる人とは少し離れたところにいる。
――あそこだとバスに並んでいるわけではないな――
 すぐにやってきたバスが人を吐き出すと、今度は待っていた人たちを飲み込んでいく。飲み込まれた人たちは我先にと席を確保し、立っている人も目立ってくる。
 バスの中は明るいと思っていたが、人が飲み込まれるうちに暗くなってくる。目が慣れてきたからなのか、人の影で暗く感じられるのか、そのどちらもであろう。
 バスは人をあらかた飲み込むと、すぐに発車した。真っ暗な中に一人佇んでいる女性、それがさっきの女性だった。
 彼女が残っていることは想像がついていた。やはり誰かを待っているように見えるが、誰を待っているというわけでもなさそうだ。
 ゆっくりとまわりを見渡しているが、人の目を気にしているのだろうか。まさか、喫茶店の窓から覗いているとは思っていないのか、こちらを見ようとはしない。少しでも気になっているとするならば分かるはずだからである。
 明るいところからガラス越しでは暗いところは見えにくい。それでも気にしているから表情までは分からないが、何とか彼女の姿を見ることができる。
 しかし、逆だとハッキリ見えるのではないだろうか。こちらの視線が熱ければそれだけ気になるというものである。
「逆かも知れない」
 部屋の中の明かりは中央部分にある。窓際から見ている場合は逆光になるだろう。表情や視線までは分からないのかも知れない。
 お互いに分からないはずだと思っているが、坂上が気になるのだから相手にも分からないはずはないだろう。気にしていないつもりでも気にしているかも知れない。そう思うが、一旦向けた視線を逸らすのは勇気のいることだ。
 彼女は突然踵を返して歩き出した。バスを待つ人が増え始めてからである。駅を見ると電車が滑り込んできている。しばらくすると、その人たちが一気に雪崩れてくるかも知れない。
 真っ赤なコートはやはり暗闇では黒い色に見えてしまう。それでも目立っているのは、褪せた色の赤ではないからだ。
 彼女の視線が、今度はこちらにあるのを感じた。坂上を見ているのかどうか分からないが、ニコリと微笑んだように見えた。まるでスローモーションビデオを見ているようにゆっくりと……。
 そして、またしても踵を返すと、歩き始めた。もうこうなっては、坂上も店を出るしかなかった。まるで彼女に魅入られたかのように感じていた。
 表に出ると、後姿がくっきりと浮かんでいる。真っ赤なコートが光っているように見えた。先ほどは黒ずんで見えたはずなのに、今度はハッキリとした赤である。
 表に出ると風の強さを感じた。店の中ではそれほど長いと感じなかった髪の毛が風に靡いているのが見える。純粋な黒髪だったように見えたのに、表で見ると茶色く染まって見えていた。
――まるで別人のように見えるな――
 後姿もやはり大きめに見える。店内の明るさと、表の暗さが作り上げるイリュージョンなのだろうか。
「カツッカツッ」
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次