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短編集117(過去作品)

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SMクラブ



                SMクラブ


 普段から真面目一辺倒の坂上が、その店に立ち入ってしまったのは、魔が差したとしか言いようがない。定時に仕事が終わって、いつものように帰ろうとしていたが、普段乗る電車が人身事故を起こしたとかで、かなり遅れるとコンコースのアナウンスを聞いた時点で、駅から離れる決心をした。
 馴染みの喫茶店が駅近くのビルにあったので、立ち寄ってみることにした。仕事の帰りに立ち寄るのは久しぶりだった。
 以前は何度か立ち寄っていたが、いつも文庫本を持っていき、短編小説を一つ読む時間が、滞在時間になっていた。時間的には三十分程度だっただろう。
 コーヒーを注文してから飲むまでの時間がちょうど三十分、猫舌の坂上にはちょうどいい時間だった。
 窓際の席に座って、時々窓の外も眺めている。下ばかり向いていると首も疲れるし、じっと目の前の字ばかりを見ていると、動くものを見たくなるのも坂上の性格なのかも知れない。
 歩いている人を見ているだけでも、結構退屈しのぎになる方であった。元々、本を読むために喫茶店に寄っていたわけでもなく、窓の外を歩いている人を見ているだけでも、三十分はあっという間だった。
 文庫本を読むようになったのは、歩いている人を見ていて単純な光景の中にも人生の凝縮が見られるのではないかという想像があったからだ。想像しているのも楽しいが、そのうちに何らかのストーリーを欲するようになった。短編小説を読むことで、きっかけがあり、結末がある時間を過ごすことができる。さらには、時間があっという間に過ぎれば、単純に過ごす三十分とは充実感が違うだろう。
 本を読んでいる三十分というのは、思ったよりも集中力を要するので、疲れ方はいつもの倍くらいである。あっという間に費やしてしまった時間で疲れは倍増するだけに、消費されるエネルギーはかなりのものだろう。
 それだけ自分の中にはエネルギーがあるということだ。
 さすがに仕事が忙しくなると、帰りに喫茶店に寄る余裕もなかったが、それも一段落すると、疲れを癒す時期を感じていた。睡眠時間をたっぷりと取り、何も考えない時間を増やすことで、疲れを取っていた。
 マンネリ化してしまいそうだった最近、電車が遅れてしまったことが喫茶店に寄るきっかけになったことは、ただの偶然ではないだろう。
 店の中は客が疎らだった。三ヶ月ぶりに寄ったのだが、
――こんなに客の少ない店だったかな――
 と思うほど、落ち着いた雰囲気だった。
 落ち着いて文庫本を読みたいと思っていたので、客が少ないことはありがたい。窓際の席も自分にとっての指定席、真っ先に空いているかどうか、向った視線だった。
 ウエイトレスの女の子は三ヶ月前と変わっていた。もっとも前にいた女の子と会話を交わしたこともなかったので、坂上のことを覚えているかどうかすら怪しいものだ。いつも同じ席に座り、文庫本を読みながら時々表を見ている。暗いタイプの男性だと思われていたかも知れない。
 だが、賑やかな客もいかがなものか。数人でやってきて、まわりの迷惑も顧みることなく、自分たちの話題を大声で話している連中よりはましであろう。特に昼下がりなど主婦が集団でやってくれば、まず静かであるはずなどありえない。
 営業中、遅い昼食を摂るために入った喫茶店で、最悪の目に遭ったことがあった。
 国道に面したドライブインのような喫茶店、最近では少なくなって来ているが、少し遠くの営業先で見つけた場所だった。
――なかなかいいところを見つけたな――
 週に一度の営業だったので、楽しみにしていた。店には漫画が置いてあり、同じ人ばかりではないのだろうが、同業者がいつも数人、黙って漫画を見ている。坂上も類に漏れることなく漫画を見ていたが、静かだからこそ集中できるというものだ。
 さすがに仕事の時間中は漫画を読んでいた。文庫本だと眠くなってしまうからで、運転に差し支えてしまうことを嫌ったのだ。
 いつもは二時頃に行っていたのだが、営業が長引いて、三時半近くになってしまったことがあった。入った瞬間は分からなかったが、奥の方に主婦が数人集まっているのは視界に入っていた。
 嫌な予感がなかったといえばウソになるが、最初から気になっていたわけではなかったのは事実である。まだ夏の気配が残る暑さの中だったので、冷房の効いた部屋に入ると最初は静かに感じるものだった。
 お冷を飲んで落ち着いていると、次第に喧騒とした雰囲気が感じられるようになった。時々奇声にも似た声が響く。
――悲鳴か――
 と思うほどで、実際には笑い声だった。
 まるで痙攣でも起こしたかのような声、笑い声だと理解するまでに少し時間が掛かった。集団の中に一人おかしな笑い声を出す人がいるみたいで、気になって仕方がなかった。
 さすがにその日は食事の味は最悪で、それからその店には近づかなくなってしまった。せっかくの希少価値である喫茶店に行けなくなったことで、主婦の団体に対してのイメージは最悪になった。駅前の喫茶店でも同じであるが、喫茶店に入る前にまず店内を見渡すようになったのも仕方がないことだろう。
 時々、店員が訝しげな顔をする。
「お客さん、どなたかとお待ち合わせですか?」
 待ち合わせでもなければ、いきなり店内を見渡す行動は怪訝に見えても仕方がない。そんな時に何を言っても言い訳にしかならず。ただ無言で見渡して、落ち着けそうであれば席に着く。
 同じお金を払ってコーヒーを飲む時間を買うのだから、店にいる時間は自分の自由にしていたいと思うのは坂上だけだろうか。ここまで厳密に時間とお金についてこだわる人は珍しいかも知れないが、求めているものに、それほど変わりはないと感じる坂上だった。
 いつもの喫茶店でいつものように本を読んでいる。
 その行動は坂上を楽しい気分にさせる。落ち着いた気分の時にできる行動だからである。精神的に不安定であれば、そんな行動は取れない。少なからず精神的に余裕がなければ文庫本を読もうという気持ちにはなれないだろう。
 文庫本を読むのは、ある意味現実逃避のところがある。精神的に余裕がない時は、現実逃避を考えることはしない。いずれは現実に引き戻される瞬間がやってくるのは分かっているので、その瞬間が嫌なのだ。
「精神的に余裕がない時に、一番楽しい時間は?」
 と聞かれると、
「寝る前」
 と答える。反対に、
「一番嫌な時間は?」
 と聞かれると、
「起きる時」
 と答える。現実に引き戻される時間が嫌な時間であることは当然であろう。
 気持ちが悪い時間という方が正解かも知れない。苦虫を噛み潰したような表情というのがあるが、あれも気持ち悪さを感じる時だ。同じような気持ちの時だと言っても過言ではない。
 その日、文庫本を読んでいると、思ったより小説の内容に引き込まれるのが早かった。
 最初の二ページほどの触りの部分をいつもはサラリと受け流し、次第に引き込まれていくものだが、その日は最初から小説に引き込まれた。内容が興味深いものだというわけではない。気がつけばクライマックスまで一気に読んでいた。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次