短編集117(過去作品)
かすみは掛かっていないせいか、綺麗に前が見えている。
マンションの近くまでくると、雰囲気は一変した。静かな朝の間隙をぬって走りこんでくるパトカー、あたりは野次馬や警官隊がロープを境に緊張した目で、中を覗き込んでいる。
「どうしたんですか?」
昨日の主婦に話を聞いてみると、
「四階の踊り場で不審者らしき人が胸を刺されて殺されていたんですよ。マスクや帽子をかぶっていて、昨日と同じ格好だったんですよ。でもねぇ」
奥さんは頭を傾げる。
「どうかしたんですか?」
「いえね、昨日見かけた人に比べて、明らかに小柄に見えるんですよ。不思議ですよね」
「夜だと影みたいになって大きく見えるのかも知れませんよ?」
「でも、昨日の人は、もう少しスリムだったと思うんですよ。太っていたのなら分かるんですけどね。そう、ちょうどあなたくらいの痩せ型でしたね」
同一人物ではないのだろうか?
三宅は身長はあるが痩せている。コートを着るとさらに痩せて見えるようだ。
「お腹を刺されて死んでいるらしいんだけど、刺されたわりには、穏やかな表情だったらしいんですよ。それも不思議なんですよね。苦しむ前に死んだということなのかしら?」
そういえば今村が言っていた。
「死ぬなら、自分が死んだかどうか分からないくらい、あっという間に死にたいものだね。苦しみたくはないな」
あっという間のできごとだったのだろう。
それにしても殺されたのは誰なんだろう? それに行方不明になっている今村がどう関与しているか分からない。
三宅が来た時にはすでに現場検証が架橋に入っていて、殺害された男性の顔を見ることができなかった。
その日の夕刊に記事は載っていた。
殺害されたのは男で、その人の名前は今村になっている。三宅が知っている今村だった。
なぜ彼が四階で死んだのか分からない。しかももっと不思議なのは、彼の顔を他の住人が知らなかったということだろうか。確かにマンションと言っても、隣に住んでいる人の顔を皆が知っているとは限らない。だが、毎日井戸端会議をしているような主婦数人が誰も知らないというのも少し不思議である。
四階で行方不明になっている人もいない。それにマンション内でのトラブルも報告されていない。捜査が進むにつれて、犯人は通り魔である可能性が高くなってきた。
「俺って結構気配を消すのがうまいからな。誰からも気にされていないというのは気が楽なものだ」
と今村が話していたのを思い出した。気が楽と言いながら、少し寂しそうでもあった。人から気にされたいという気持ちの裏返しだったに違いない。
自分が死ぬことを予期していて、それで自分を呼び出したように思えてきた。いつもならそんなことは感じないのに……。
――死んだ今村が訴えているのだろうか――
とも思えてきた。
彼はあっという間の出来事で、自分が死んだことを知らないのかも知れない。そして、今でも三宅が自分を訪ねてきてくれるのを待っているようにも思える。
五階の部屋は葬儀の用意でざわついた雰囲気だが、彼の部屋の下には誰も住んでいない。四階の冷たい部屋で、彼は一人待っている。その部屋には大きな鏡があって……。
「あの時、エレベーターは四階に止まったんだ。そして、一日中、俺のことを待っていたのかも知れない」
自分が死んだことも知らずにである……。
( 完 )
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次