短編集117(過去作品)
とりあえず仕事も一段落していることで、会社には昼から出社することにした。シフト制の会社なので、事務所には誰かがいる。会社に電話さえ入れておけば、後は心置きなく自分の心配事を解消すればいい。別に何もないだろうという思いを確実なものにしなければ気持ち悪いのだ。気持ち悪いことを放っておくと夜になると、後悔の念で眠れなくなることがある。それだけは避けたかったのだ。
早朝はまったく昨夜と違う顔を持っていた。かすみが掛かっているのもその一つだが、時間が経つのがやたら早く感じられる。
駅を降りて友達のマンションに向うまで、昨夜との大きな違いはたくさんの人とすれ違ったことだ。
通勤途中の人たちがそのほとんどで、どの人も一様に同じような表情をしている。無表情とはよく言ったもので、何を考えているか分からない表情だ。まったく違うことを考えているはずなのに同じ表情をしている。表情についてコメントできない雰囲気を無表情と表現しているのかも知れない。
駅を降りてから友達の部屋までゆっくり歩いても二十分は掛からないはずなのに、マンションの近くまで来た時は、すでに午後九時を回っていた。
学生の姿もほとんどおらず、近所の主婦が井戸端会議をしているところに出くわした。表情に硬さはなく、血なまぐさい雰囲気の微塵も感じられない。時折笑い声が聞こえてくるくらいで、幾分か拍子抜けしてしまった。
話の内容も家族の話や、ドラマの話など、どこにでもある主婦の会話である。普段であれば、あまり聞きたくない話題であったが、聞き耳を立ててしまうのは、あまりにも日常的な会話が不思議だったからだ。それともこのあたりは血糊がどこかに残っていた程度のことは日常茶飯事なのだろうか?
聞き耳を立てていると、主婦の一人が怪訝な顔をしてこちらを見ている。一人が気になりだすと、他の人も気になりだしたようで、
「何か?」
会話の中で中心的な主婦が輪の中の真ん中に入り、三宅に声を掛けた。他の主婦たちも輪を解いて、三宅に語りかける主婦を中心に横一列になった。
出来ていた輪にくらべれば、横一列はそれほどの威圧感はない。輪になっていると、後ろを向いている人がいるので、その人の表情が見えず、他の人の表情から想像しなければならないことで、威圧感が増しているように感じるのだ。今くらいなら対等に話ができそうだ。
「昨日、ここで不審者を見たというお話なんですよ」
意外な答えだった。血糊を見つけて、てっきり警察沙汰になってしまっていることを話題にしているのかと思ったが、血糊の話題をしている雰囲気ではない。誰も血糊があることに気付かないのだろうか。
「不審者とは?」
「ええ、一人の男性がずっと下を見ながら歩いているというんです。ロビーからエレベーターに乗るところを見たという人もいますし、四階の踊り場から通路にかけてずっと下を見ながら歩いているという人ですね」
――血糊を探しているんだ――
「時間的には?」
「昨日の早朝ですね。今くらいの時間かしら?」
「あら、違うわよ。私が見たのは十時前くらいよ」
二人の主婦の意見は錯綜する。そんなに長い時間探しているのか、それとも何度も探しに来ているのか、それとも主婦の勘違いか。どれにしても不思議であった。
血糊があったのは昨夜である。ということは、不審者と血糊は関係ないのだろうか。
三宅は誰もいなければ、今から自分もしたであろう行動を想像してみた。間違いなく人から不審者に思われるだろうし、一階ロビーやエレベーター付近では、主婦が見たような不審者と同じ行動であろう。だが、四階というのはどういうことだろう?
そういえば、昨夜エレベーターが五階で止まったという確認はしていない。
エレベーターが止まったので、表に出た確認をしただけだったし、降りたエレベーターもいつの間にか一階まで降りていた。ということは、問題の階で三宅が降りてから恐怖に駆られるまでに、想像以上の時間が掛かったということである。
主婦の話を総合すると、不審者は何度か目撃されている。その人は男で、体格は少し太り気味で、マスクや帽子をかぶっていて、明らかに不審者と思える恰好だったということだ。
――普通の恰好だったら、探し物をしているだけと思われるだけなのに――
その証拠に今日の三宅の恰好は至極普通の恰好である。
その不審者には、人に顔を見られてはいけないという気持ちがあったのだろうか?
「その人に心当たりは?」
と三宅が聞くと、
「心当たりありそうなんです。皆誰かイメージがあるようなんですが、不思議なことに皆それが誰なのか確定することができないんですよね。だから、こうやって話題になるんですけど」
話題になるということは、男にとって決して望んだことではないだろう。不審者の恰好をしていたことで皆の注意が長引いてしまうことは意図したことではないはずだ。
不審者の正体を知っていて、出掛かっているのだろうが、三宅にはそれが皆それぞれで違う人をイメージしているのではないかと思えてならない。同じ人であれば、誰かがヒントのようなものを与えれば、名前が出掛かっているのだからすぐに出てきそうなものだ。それがないということは、それぞれで違う人物をイメージしているに他ならないに違いない。
三宅はこれ以上、ここに留まることへの意味のなさを感じた。それは今日という意味で、また明日同じ時間にここに来てみないと何も分からない気がしたからだ。明日ここに来て何が分かるというのは想像できないが、少なくとも進展があるに違いないことだけは感じていた。
主婦たちに軽く挨拶をすると、エレベーターに乗り込んだ。目指す先は五階、今村の部屋である。
エレベーターは昨日よりも早く五階までついた。昨日もやはり五階まで来ていたように思えるが、やはり確証がないのが心残りである。
エレベーターが開いて、友達の部屋の前までは、別に何事もない。昨日ぶつかってきた影を一瞬思い出したが、記憶が薄れ去られてしまうくらい以前に感じた遠い昔のことのように思えるくらいだった。
ブザーを鳴らすが応答がない。しばらくしてもう一度鳴らすが、その時には、部屋の中には誰もいないという確証の元での行動だった。
「やはり、いないか」
まるで最初から分かっていたかのようである。もし、いれば少し間が悪いのも分かっていた。それでもいてほしいという気持ちでブザーを鳴らしたのは、嫌な予感があったからだ。
その予感が的中したのは翌日になってからだった。
その日はそのまま会社へと出かけたが、頭の中はすでに翌日の朝の行動でほとんどが占められていた。
もう一度、彼の部屋を訪れてみようと思ったからだ。いない確率は限りなく百パーセントに近い。いないことを確認するためのものでもある。それよりも、それまでに何らかの動きがあると思える。その日はニュースにも気をつけていた。夕刊も普段は買わないが、駅の売店で買って読んでみたりしたが、それらしい事件の話が載っていない。ホッとした自分を感じるが、事件のないことにホッとしているのか、それとも、あるなら明日だと思っていることにホッとしているのか自分でも分からない。
翌日になって同じ時間に出かけた。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次