短編集117(過去作品)
だが、人間の好奇心、さらには、同情心、人間としての良心や仲間意識なるものが、その時彼らを襲ったのかも知れない。
一人が振り向いてしまった。
「ダメだ。神に逆らってはいけない」
という制止の声を聞く前に、彼は石を化してしまった。
それでも、彼を救うことは神の御心ではなく、見捨てていくしかない。神というのは、人間に対して非情なものである。だからこそ、神と言われるのかも知れない。
しかし、三宅青年は、その話を読んだ時、少し違うイメージを抱いていた。
そこには人間の人間たるゆえんに対する警鐘のようなものが含まれているように思えるのだ。
聖書は得てして、人間に戒めを与えている。いくら悪いやつでも、悲鳴を聞かされたり、苦しんでいるのを目の当たりにすると、助けたいという気持ちが表れる。
だが、そんな人間らしい気持ちを神様は許してくれない。同情よりも秩序を重んじているのだろう。後ろを振り返ることで石になってしまった人、それはある意味生きているのか死んでいるのか、どちらか分からないように曖昧な結末を与えることは、せめてもの慰めなのかも知れない。
三宅はその話を思い出しながら、ずっと前だけを見て降りていった。後ろを振り返りたいという思いもとても強いが振り返ることを許さない自分が存在していたのだ。
聖書の話を思い出していると、目の前に明かりが見えてきた。非常口と書かれた明かりより、下に階段はない。
「よかった、ここが一階だ」
一時はこのまま永久に階段を降り続けなければならないのかと思っていただけに一安心である。一気に扉に手を掛けて向こうに開くと、最初に感じた冷たさも重たさも感じることはなく自然に大きな扉は開いたのだ。
その向こうに広がる景色は見慣れた景色に思えた。エレベーターの横に降りてきたところから垣間見る一階ロビーである。
階段で降りたことがなかったのに、最初に見た光景に見覚えがあったのはなぜだろう?
確かにエレベーターから降りてきたことは何度もあるが、まだ明るかった。いつも帰りは朝か昼。正面の自動ドアの向こうに広がる表の暗さを見たのは初めてだったはずである。
薄暗さには表から入ってくる時は慣れているつもりだったのに、今日はいつもより薄暗く感じた。しかも今、降りてきて見ている光景は初めてのはずなのに、前にも見たように思えている。不思議なことが多い。やはる何か不吉なことが起こる予兆だったのだろうかと思えてならない。
一階まで降りてくると、さっきまでの興奮がウソのように落ち着いていた。しかし、さすがにまた五階まで戻ろうという気分にはなれない。友達と約束していたので、本来であれば連絡を取って、行けない旨を伝えなければいけないのだが、その気にもなれなかった。
何事もなかったかのようにマンションを出て駅に向かう。さっき来たのとまったく逆を歩いているわけだが、前から歩いてくる人を見かければドキッとするに違いない。幸いにも誰ともすれ違うこともなく大通りに出たが、
――ドキッとする相手がひょっとして自分なのでは――
と感じたからだ。
もう一度、このマンションに訪れた時間に戻ってみたい気もしたが、今から思い出すと、最初から何か薄気味の悪いものを感じていたように思える。
思い過ごしは分かっているが、それだけ心の底にショッキングなイメージを残したのだろう。
一階まで来た時、何事もなかったように落ち着いていて、気持ちがリセットされたのを感じたが、それからは次第に気持ち悪さがよみがえってくる。じわじわと虫歯が痛むように、気にしないようにしようと、集中すれば気にならないのだろうが、そのかわり、集中を切らしてはいけないと思うことで、精神的な疲労は半端なものではない。
歩いていても息が切れてきそうだ。下り坂なのに息が切れるのはどうしてなのかと考えたが、下り坂の方が却って抑えていかなければならないので、足に負担が掛かってしまう。山登りでも、上りよりも下りの方が足腰に来るものである。
その日、予定になく家に帰ってきたこともあって、自分の家に帰ってきたという実感が湧かない。部屋に入ってしまうと自分の家なのだが、それまでの道のりを思い出すと、まったく違う心境に陥ってしまっていた。
顔をその日は夢も見ていた。
どんな夢を見たのか、目が覚めてからところどころしか思い出せないが、白黒だったイメージが強い。元々夢の中に色の概念はないと思っているが、その日に感じた一番の驚愕は、やはり血糊だっただろう。
夢の中で血糊がリアルだった。
しかも白黒で、どす黒さが目立ち、赤いというイメージはまったくなかったのだ。
血がついているところが光っている。黒光りがこれほど気持ち悪いものだということは夢であっても分かるというものだ。今までにもモノクロの映画をビデオで見たことがあったが、ビデオを見たという記憶があるから、モノクロが夢の中に出てきたのであろう。
汗を掻いていた。夢を見て汗を掻くのは久しぶりである。最近は楽しい夢ばかりを見ていたイメージがあるので、汗を掻いても心地よさが残ったが、その日は違った。身体が重く、起き上がるのが億劫だった。
布団から出ると寒気がする。喉がカラカラに渇いていて、それも汗を掻いた証拠なのだろう。布団の中が異様に熱を持っている。こんなことも久しぶりだ。
目が覚めてくるにしたがって気持ち悪い状態は消えなかった。気だるさだけがなくなっていくが、却って身体の重たさは残っている。
昨日のことが遠い記憶に封印されたと思っていたが、夢が記憶を引き戻す。気になり始めるととことん気になってしまう三宅には、一夜が却って記憶を深めてしまったのかも知れない。
鮮明に覚えているわけではない。それだけにもう一度あの場所に行って確かめなければ仕事にもならない。
着替えを済ませると、食事も摂らずに家を出た。向かう先は昨夜の通り、電車の本数もまだまばらな早朝では、表に出ればかすみが掛かっていた。
朝日がかすみの中で無数の糸を引いたかのように鮮やかである。街路樹に当たって、綺麗な緑を映し出しているが、まわりをさらに幻想的なイメージへと誘っていた。
こんなに早く表に出るのは久しぶりである。
学生時代にバスケットをしていた時、早朝練習で見た覚えがあるが、あの時は練習がきつくて、それどころではなかった。こうやって改めてその頃を思い出しながら見ていると落ち着いた気分になれそうな気がしてきたのだ。
昨日のことが気になっているわりには、幻想的な雰囲気に魅了されると、落ち着いた気分になれる。それも精神的に大人になった証拠かも知れない。
大人とはどこからが大人なのか、考えたこともないが、子供の頃を懐かしく思い出せるようになれば、大人になった証拠かも知れない。たえず前しか見えず、後ろを振り返ることがまるで罪悪のように感じられる自分を思うと、まだまだ先には楽しいこともあれば、辛いこととも真剣に向き合っていかなければならないと自覚してしまう。
気になり始めるとどうしようもなくなるのも、三宅の昔からのくせだった。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次