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短編集117(過去作品)

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 身体が宙に浮く感覚を覚えたかと思うと、エレベーターの扉が開いた。エレベーターから降りようと扉の前に立って待っていたが、開いた瞬間に激しい痛みを肩に感じ、引っ張られるようにエレベーターから押し出された。
 押し出されると同じ瞬間に、三宅の左側を恐ろしいスピードでエレベーターに吸い込まれる黒い影があった。
 影はまさしく黒ずくめ、実態なのか影なのか、それすらハッキリと分かりかねるほど真っ黒だった。ものすごいスピードだと感じたのは、押し出される自分のスピードに、吸い込まれる男のスピードが作用して、目にも留まらぬスピードとなったのだ。扉が閉まるまでには時間があり、十分後ろを振り返ることができたはずだが、気を取り直して後ろを振り向いた時は、エレベーターが閉まりかける時だった。
 そこには男が息を切らしながら戸惑いと怯えに満ちた表情で立っていた。目はエレベーターの扉の上にある階表示を見つめていて、
「大変だ。人が……、人が血を流して倒れている……」
 と力のない声で呟いていた。戸惑いは、見てはいけないものを見てしまったこと、怯えは自分が何をしていいのか分からず、衝動的な行動に出ていることを示していた。三宅の胸も高鳴った。
 もしそれが本当だとすれば、とんでもないところに居合わせたことになる。このまま帰ってしまうこともできる。何しろ現場に足を踏み入れていないのだから。
 三宅は思わず手の平を見つめると、そこには真っ赤に染まった血糊がついているのに気付いた。さらに自分の服を見ると、ところどころに真っ赤に染まったものがついている。さすがに怖くなって、三宅はその場から離れる決心を付けた。
 エレベーターを見ると、どちらも一階で止まっている。一刻も早く立ち去りたいという思いからか、隣にある非常階段を使うことに決めた。
 かなり大きな扉を開いた。防火扉になっているのだろう。結構重たく、しかも冷たかった。あまりにもゆっくり開くので、後ろを気にしながら開けていた。幸いに後ろから迫ってくるものは何もなかったが、あまりにも静かなのが、却って気持ち悪い。さっきの影の慌て方からすると、現場は悲惨な状態なのだろう。騒然としていないということは、誰も知らないということ、何かが起こっているということを知っているのは、さっきの影と影の様子を見た三宅だけということになる。
 階段には非常灯がついているだけで、ほぼ真っ暗に近かった。だが、中に入ってみると、思ったより広い階段の踊り場に大きな影が映し出されている。まさしくその影は三宅の影で、非常灯の明かりだけでここまで大きな影ができるものかと疑問に思うくらいである。
 足元の階段を一歩一歩駆け下りる。最初は薄暗さから恐々と降りていたが、暗さにも慣れてくると、大胆に降りていった。まずは現場から少しでも遠くに立ち去りたいという思いが強く、まず最初の目的は、一階に到着することだった。
 手すりを持って、段を踏み外さないように、足元ばかりを見つめながら駆け下りている。
 階段は、一階下に下りるまでに一回踊り場に出て、方向を反転して降りる形の階段である。マンションの階段では一般的だろう。
 さすが密室に近い階段、革靴の音が耳を通して頭の芯に響いている。乾いた音は階段全部に反響し、上の階からも、目指している下の階からも聞こえてくる。まさしくどこからどもなくこだましている靴音だった。
 自分の荒い息もこだましている。乾いた靴音とは反対に、荒い息は湿気を帯びた空気に反応しているのではないかと感じさせられた。ちょうどお互いの空気を刺激して駆け下りる階段の中は風もなく、本当に密室の中を駆け下りていく感覚であった。
 階段の先はどんどん真っ暗になってくる。
――地獄の底にでも向っているようだ――
 天国への階段というのはよく聞くが、地獄への階段というのは聞いたことがない。だが、階段というものに感じるイメージは、天国に上っていくようなイメージよりも、地獄に落ちていく静かで静的で、暗く冷たいイメージがよほど想像できるものである。明るいイメージと階段は結びつくものではなかった。
「ホラー映画の見すぎじゃないのか?」
 と言われそうだが、実際に三宅はホラー映画を見ることはない。怖がりで、子供の頃などは怖い話を聞くと、真剣トイレにも行けないような少年だった。
「俺は自分で見たものや触ったものでなければ信じない」
 とずっと言ってきたのに、そのくせジンクスは信じる方だった。きっと怖いものに対してだけはその存在を否定すること自体が自分にとっての怖さだと思っているからだろう。
 怖いものを信じるのは、自分の中にある弱い部分を露呈したくないという気持ちの反動ではないだろうか。捉われることのない妄想にとらわれて、神経をすり減らすことに違和感を感じながら、逃れることのできないもの。それならば、最初から「君子、危うきに近寄らず」である。
 一生懸命に降りていく階段、その先には更なる闇が待っている。
――このまま出口がなければどうしよう――
 非常灯の明かりは、黄色っぽい色である。車でトンネルに進入すると、トンネル内にはハロゲンランプの黄色い明かりがついている。子供の頃、助手席から運転している父親の横顔を見ている時、首筋に写った異様な色を忘れることができない。
 すべての色がモノクロに見えるハロゲンライト。父親の首筋は完全に土色と化して、まるで死人のように見えたのだ。
 あの気持ち悪さを思い出すと密室が気持ち悪くなる。特に黄色いライトが灯っているところは、一人では気持ち悪い。写真の現像室にこもって仕事をしている人の神経が信じられないくらいである。
 階段を下りるうちに、息が上がってくる。
 何箇所も曲がって、まるで螺旋階段を下りているような錯覚から、何階を降りているのかすら分からなくなってしまっている。
 冷たさがピークに達してきたのか、身体のいたるところで感覚がなくなってきた。まず手すりを持つ指の感覚がなくなっていて、耳たぶの感覚がなくなっている。
 唇はカサカサに乾いてしまって、感覚がなくなりかけている。それでも必死で降りようとしているのは、本能が生み出す行動の成せる業であろうか。
「そろそろ一階じゃないのか?」
 階段の踊り場に階を示す表示はどこにも見当たらない。普通はどこかにないとおかしいはずだ。本当はあるのだろうが、気が動転しているために見つけきれないのかも知れない。それは十分に考えられることであった。
「立ち止まってはいけない。振り返ってもいけない」
 誰から言われたわけでもないが、こんな場面はそういうものだと頭で思い込んでいた。
 思い出されるのは聖書に出てきた「ソドムの村」である。
 秩序も道徳もなく、荒れ果てた人々の心を戒めるために神が使わした使者に、村を出て別の土地で暮らすことを指示されるが、村を出る時、
「何があっても決して振り返ってはならない」
 と言われて脱出している時だった。
 村が一瞬にして消えてなくなる様が後ろで起こっているのに、それを見てはいけない。神のみぞ知る世界を人間が踏み入ってはいけないという教訓だと思っていた。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次