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短編集117(過去作品)

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 なるほど、学生時代から人に合わせるのがうまいやつだったので、どこに行っても無難にこなすだろうと思っていた。仕事さえ覚えてしまえば、後は何とかなるもので、最初、今の会社でずっとやっていけるかと思っていた三宅でさえ、一年経てば、だいぶ会社全体が分かってきていた。
 名前は、今村という。今村は、地元では大手の商社に就職した。彼の成績からすれば、
「よく入社できたな」
 と言われても仕方がないところでもあった。本人も性格的に天真爛漫なところがあるが、どこかいい加減なところもあったので、商社のような硬い企業で勤まるかというのが危惧されていたのだ。
 仕事内容は別にして、研修期間中から目立っていたようだ。時々連絡をくれた時も、
「結構、人間関係で悩むかと思ったけど、そうでもないよ。分かり合えれば、学生時代と変わりなくできるからね」
 どこの企業でも同じだが、最初が肝心なのかも知れない。
 かくいう三宅もそうだった。最初研修期間中に倉庫の仕事などをしていたが、その時にパートのおばちゃんたちに気に入られたのが、人間関係をスムーズにできた要因かも知れない。おばちゃんは新入りには結構人懐っこく話しかけてくる。中にはそれを億劫に考える人もいるだろう。それでも顔にさえ出さなければいいのだろうが、人間というものなかなかそうも行かない。やはり気持ちは顔や態度に出るものだ。特にパートのおばちゃんは若い連中の心の奥を読むのがうまく、それだけに営業の人たちからも一目置かれていたりする。逆に慣れればこれほど楽しい環境はなかった。
 今村はそれからしばらくして、頭角を現してきた。三宅の会社とも取引があるので、営業で今村が現れた時は、最初懐かしさから、学生時代に戻ったような気持ちだった。
 しかし、今村はそんな三宅に冷たかった。
 当然である。営業として訪れた会社に学生時代の友達がいたとしても、今は社会人なのだから、お互いに立場がある。甘い思い出に浸っているわけにも行かないだろう。
 その時の目を見た時、
――俺たちはもう学生時代じゃないんだな――
 ということを痛感したが、それは仕方のないことだが、一抹の寂しさを感じさせることでもあった。
 だが、それは会社にいる時だけで、その日の夜にはさっそく彼から電話が掛かってきた。
「もしもし、三宅君?」
「ああ、今村か」
 思わずそっけない態度を取ってしまったが、今村の態度は終始腰が低かった。
「昼間はすまなかったな。何しろ営業中だったんでね。本当に申し訳ない」
 最初のこの一言で許す気になっていた。わざわざ電話をくれたことだけでも、よしとしてもいいだろう。話が進むうちに、
「一度二人で呑もうよ」
 ということになった。
 会社の近くはまずいということで、
「俺の部屋でどうだ?」
 と誘ってきたのは今村だった。今村はワンルームマンションに住んでいて、いざとなれば泊まっていけばいいと言ってくれている。二人で飲み明かすにはちょうどいい環境のようだ。
 初めて今村の部屋を訪れたのは半年前だった。電話が掛かってきた日から三日目のことだった。金曜日だったので、夜を徹して呑むにはちょうどよかった。
 部屋の広さは最初に入った時よりも、酔いが回ってくるうちに広く感じられるようになっていった。
「面白いだろう? 俺も同じことを感じることがあるんだ」
 部屋が広く感じると言った時に、今村が答えた。最初は酔いのせいだということで、軽く受け流すだけの話題のつもりで話をしたのに、意外にもその話題に今村は乗ってきた。
「酔いが回ってきているせいじゃないのかい?」
「そうじゃないんだ。何となく部屋がどんどん広くなっているように感じて、最後には同じ大きさの部屋がもう一つできた感じがするんだ」
「それはどういうことだい?」
「こっちに壁があるだろう?」
 今村が左側の壁を指差した。そこには軽い防音が施された壁になっているが、何も掛かっていない。殺風景で気になりそうなものだが、不思議なことに最初は殺風景なことが気にならなかった。
 今村は続ける。
「この壁がまるで大きな鏡になったように感じることがあるんだよ。稀になんだけどね。鏡にはこちらの世界の景色が偽りなく写っているんだけど、唯一同じでないものがあるんだ」
「というと?」
「俺が写っていないのさ。だから隣にもう一つ部屋ができたような感じがするんだよ」
「なるほど、それでこの壁は殺風景なんだな。だけど、気持ち悪くないかい?」
「最初は確かに気持ち悪かったけど、慣れてしまえば何てことはないさ。たまに寒気を感じることがあるくらいで、俺がこの部屋に慣れたのか、この部屋が俺の住みやすいように変わっていったのか分からないけどな」
 そう言いながら笑っている。もし自分がこの部屋に住むようになったらきっと気持ち悪くてたまらないだろうと思いながら、心の底で寒気を感じていた。
「お前は変わっているからな」
「ありがとう」
 この言葉は皮肉でも何でもない。実際に今村は変わっていると言われることを嫌っているわけではない。むしろ他人と違うということで喜ぶくらいのやつだった。もっともそんなやつだから三宅も仲良くしているのかも知れない。
 三宅にも人と違うと言われることが嬉しいと感じるところがあった。
「人との違いはどんなことであっても個性だからな。極端な話、犯罪にさえならなければ、別に問題ないんじゃないか」
 と平気で嘯くこともあった。今村と三宅は、そういうところが一番共鳴しているところだと思っている。
 今村の部屋で何度くらい呑んだだろうか。あまりアルコールが強くない三宅は、今村に合わせて呑むわけにはいかなかったが、それでも酔いはしっかりと回ってくる。今村の部屋を思い出す時はいつもほろ酔い気分の記憶で、思い出すたびに顔が火照ってくるのを感じる。
 今村の部屋のリビングに、彼女の写真が飾ってあった。写真は二人で撮ったものではなく、彼女だけが単独で写っているものだった。
「普通ツーショットの写真を飾るものじゃないのか?」
 と聞いたことがあったが、
「これでいいのさ。この写真が一番気に入っているんだ」
 確かに表情は自然で、まるで写真を撮られているというイメージが湧いて来ない。かといって表情はレンズを意識しているように思えるのは、それだけこれを撮影した今村の腕ではないだろうか。
「いいよな、彼女がいて」
 少し羨ましかった。仕事に慣れることを優先していたので、なかなか彼女を作る暇もなかった。同期入社の中には、付き合っているやつらもいると聞くが、彼らを羨ましいとは思わない。社内恋愛には少し抵抗があった。
 とはいえ、三宅の会社で妻帯者の半分近くは社内恋愛から結婚した人が多いという。ある種の伝統のようなものだと言われた。
「俺が口を利いてやろうか?」
 と彼女の友達を紹介してやると言わんばかりに世話を焼いてくる同僚もいるが、それこそ余計なお世話だ。恩を作ってしまうことになるし、ましてや付き合い始めたとしても、何らかの諍いが生じれば、紹介者ともわだかまりができてしまう。そんなリスクを負うようなことはしたくない。
「いやいや、彼女くらいは自分で見つけるさ」
 とやんわりとお断りしたものだ。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次