短編集117(過去作品)
なぜ勉強しなければいけないのか、そして「いい子」とは一体どういう子のことをいうのだろうか? あまりにも漠然としていて分からない。他の人は皆黙って従っているが、従い根拠はどこにもない。
あまりにも漠然として思えるからだ。所詮小学生なのだから、世間のことは何も知らない。だから考えも及ばない。親や先生の言うことを聞いていれば、とりあえず褒められるし、怒られることはない。だが、その理屈がそもそも分からないのだ。
今から思えば、人生の先輩である親や先生の言うことを聞いているのが、小学生としては一番無難なことは分かる。そのことが分かってくると、自分が踊らされていたことに気付き、反抗したくなるのが普通であろう。敦也は逆だった。
中学に入れば先生や親のいうことをよく聞くようになった。優等生のように思われていたかも知れない。だが、友達からはあまりいいイメージではなかっただろう。いいなりになっているようにしか見えないはずだ。
人からどう思われるのがいいのかを考えていた時期があった。褒められて自惚れるのが小学生の頃は嫌いだったのに、中学になればそれでいいと思うようになる。自分がまわりから操られているのではなく、操られているふりをして、まわりを冷静な目で見ていると思いたかったのだ。
天邪鬼だと思い始めた頃、まわりから目立つようになってくると、独創性に長けてきた。高校でバンドを組んで音楽をやるようになると、学園祭では光っている自分に酔いしれていた。熱するのも早かったが、冷めるのも早いもので、高校を卒業する頃には、音楽をやめていた。
その時に初めて女性と付き合い。女を知った。ステージの上では怖いもの知らずだったはずの敦也も、ベッドの上では目の前にいる女性に手玉に取られていた。
意外と快感でもあった。ステージに上がり脚光を浴びることに慣れてくると、今度は誰かに身を任せてみたいという衝動に駆られるものだった。
彼女の舐めるような眼差しが印象的だった。
――何をされるのだろう――
ワクワクしたものだ。さんざん焦らされたものだ。あっという間に過ぎた一晩だったが、思い出そうとすると、一晩では足りないかも知れない。
もっとも思い出そうとして思い出せるものでもなく、身体が覚えているだけだ。それも夢で見たかのように意識していると、思い出せるものも思い出せなくなってしまう。
その時期は、敦也にとって、もう一人の自分を意識した時期だった。男にとって女が必要なように、女にとっても男が必要なのだと分かった瞬間だった。気持ちの問題なのか、身体の問題なのか、その意味は深く、いずれは見つかるはずではあるが、きっと一人で見つけることはできないだろう。
その時になれば相手が現れる。現れた相手が結婚相手であれば、必ず幸せになれると思っていた。
敦也が佳代子にしたプロポーズの言葉、
「君を幸せにできるかどうか分からないが、俺は幸せになれると思うんだ。だから、君を選んだ」
知らない人が聞けば何とも自分本位な解釈のプロポーズであろう。だが、これが本心である。
「あなたがいなければ自分は幸せになれない。自分が幸せになるということは、同時に肝も一緒に幸せになる」
ということを回りくどい言い方で表現したのだ。
「いいわ。私があなたの幸せなのね?」
「ああ、そうだよ、そして、俺が君の幸せなのさ」
もう、これ以上の言葉はいらなかった。初めて女性を知ってからずっと捜し求めていたものを、やっと発見したのである。
結婚してから、ずっと順風満帆だった。恐ろしくなるくらい幸せな時というのは、得てしておかしなことを考えるものだ。
時々夢の中で、初めて女性を知った時のことが思い出される。結婚してから佳代子のイメージが変わってしまったというわけではない。敦也にとって自分の中にある何かが怯えとなって現れているように思える。
――怯えとは何だろう――
自分で納得しなければ気が済まなかった小学生時代を思い出していた。
同窓会では、幹事のそばで飲んでいたが、妻の様子を見ていると、やはりあまり楽しそうではない。最初こそ、
「この二人、実は夫婦なんだ」
幹事からそう紹介されて、照れていた二人だったが、次第に話題は時代を遡っていく。
それぞれがパートナーを選んで会話を膨らませていく。一組の夫婦の話題など、酒の肴にはならないのだろう。
妻の佳代子はさっそく女の子の一人に捕まったようだ。小学生時代に人気者だった佳代子のことだから、当然と言えば当然だ。
逆にあまり友達がいなかった敦也には、誰も話し掛けてくれる人もいない。こうなることは最初から分かっていたので、幹事から離れなかったのは正解だった。
幹事は、幹事としての仕事があるので、あまり酔うわけにもいかない。しかも責任上、まわりを意識していなければならず、深い話に入り込まない方がいいだろう。感受性が強かったり、自己顕示欲の強い人間は、幹事には向かないものだ。
そういう意味で、幹事を引き受けている桜井は、うってつけだった。人の面倒を見るのが好きで、それでいて目立っている。天性のものがあるのだろうが、誰にでもあるというものではない。しかも本人が自覚していなければならず、きっと自覚していないと、
――これほど損な性格もないだろう――
と感じるに違いない。
幹事と友達だったということを思い出すだけで、小学生時代を思い出すことができる。もしその思い出がなければ、暗黒の時代だったからだ。
幹事と話をしていると、他の連中が話し掛けてきた。桜井に話し掛けてくるのかと思えば、話し掛けてきた相手は敦也にだった。まったく予期していなかっただけに、ビックリしてしまった。
「お前は結婚するなら早い方だと思っていたが、まさか佳代子さんが奥さんになっているとは思ってもいなかったね」
「どうして、結婚が早いと思ったんだい?」
「結構、朝霧って分かりやすい性格だったので、一人の人が決まれば、すぐに結婚に走ると思ったからだよ。あくまでも俺の見方だけどね」
「分かりやすいかな?」
思わず頭を傾げたが、言われることは最初から分かっていたように思えた。
「そうさ。ハッキリしすぎているから面白くないところもあるし、逆にカチンと来ることもあるんだよ。君は損な性格だったのかも知れないね」
「損?」
「ああ、目の前にいるだけで苛めたくなるタイプというのかな? 逆のやつもいるんだけどね」
「というと?」
「そばにいてもまったく気にならないやつさ。気配を消してるというのか、まったく目立たないんだ。でも、そういうやつよりも朝霧のようなやつの方が、今から思えば話がしやすいんだ。言い訳になるが、あの頃は子供だったということで、苛めてしまったことを許してくれよな」
「いいんだって、俺も気にもしていないさ。それよりもこうやって時間が経ってから友達として話をしてくれるのが嬉しいのさ」
本心である。小学生の頃が暗黒の時代だったと思ったまま大きくなった。自分にとっての汚点だった時代である。そんな時代を十年以上経ってから埋めてくれる相手は、あの頃自分を暗黒の対象に落とし込んだ連中でしかありえない。
――やはり同窓会に参加してよかった――
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次