短編集117(過去作品)
他の人はどうなのだろう?
自分のことを分かっているつもりでいるのだろうか。坂上はそれを羨ましく思う。もし、分かっていないとしても、分からないことも面白いと思えればそれでいい。だが、周りが分かるだけに、坂上には自分が分からないことは苦痛になるのだ。
坂上は、その日の夜、またあの店に行ってみたくなった。
夕方までは普通に帰るつもりだったが、なぜまた行きたくなったのかというと、いろいろ考えていても、結局頭の中に残ったのは、昨日の彼女の自分を見つめる目だった。
彼女のことが気になって仕方がない。
――好きになったんだろうな――
気になるくせに、まるで他人事である。
今までも気になることや、自分にとって切実なる問題に対して他人事に感じることがあった。
逃げの姿勢だと思って自分の短所だと思っていたが、ある意味、客観的な目で見ることができるという冷静な目を持っているからできることなのかも知れない。
あまりにも自分にとって都合のいい考え方かも知れないが、気になる女性に対して思っている考えは、自分の中に潜在している意識を正当化してくれそうだ。
店に行くと、マスターだけがいた。
――さすがに毎日会えるわけではないか――
「自分には羞恥心というものがないように思えるんですよ」
「羞恥心がないと思っている人ほど、案外持っているものかも知れないですね。羞恥心を感じるほど恥ずかしい思いをしたことがないのか、それとも、まわりに羞恥心を履き違えた人がいて、その人の影響を受けているかということも言えるでしょうね」
親が厳格であったことも言える。潔癖症なところがある親の目は、汚いものを見る時の目は見るに耐えないものだった。
汚いものが何であるかということを知らない子供の頃に見せられた表情、天邪鬼である坂上には、決して受け入れられるものではなかった。
羞恥心がないわけではない。元々あった羞恥心を教育すべきはずの親が奪ってしまったのだ。
心のどこかで親を尊敬しながらも、基本的には軽蔑している。どうしてそんな気持ちになってしまうのか分からなかったが、今思えば、そんなところに遡る過去の原点があったに違いない。
親の尊敬すべきところは、軽蔑しているところが強いながらも、威厳を持っているところだ。
矛盾しているようだが、自分の中にないものをたくさん持っていて、しかも、自分よりもはるかに経験を積んでいることである。経験豊富な人には何を言っても説得力はない。それだけに親に逆らうことは、自分の信念に逆らうことでもあった。とにかく親と正面から向き合うことは、より一層のジレンマを坂上に与えることになるだろう。
新しいものを求める坂上にとって、羞恥心の何たるは大切なことだった。
自分を見つめる女性は、彼に何かを求めているのか、それとも彼の中にある何かに共鳴しているのか分からない。だが、ヘビに睨まれたカエルのように身体が硬直してしまったことも事実で、
――ひょっとして身体の硬直は、羞恥心の表れの一つかも知れない――
とも感じていた。
まわりを分かっているというのは、苦痛ではあるが、それも快感の一つではないだろうか。そのことを彼女は分かっていて、坂上に興味を持ったのかも知れない。
あまりにも都合のいい考えだが、もう、坂上の頭にはそれしかなかった。
――彼女に会えば、すべてがハッキリする――
店にいてマスターと話が盛り上がっている頃に彼女はやってきた。
だが、彼女の目が昨日とは違う。まったく坂上を眼中にしていないようだ。
「彼女ってね。相手に自分のことを気付かせるのがうまいんですよ。まるでそのために生きているような女の子でね。これも、M性の一つなのかも知れないね」
マスターが究極の話だという前置きで、彼女のことを話した。
そうかも知れない。
SMの世界にもいろいろあるが、人のためになることもあれば、それを自分で気付かずに生きている人もいる。坂上は彼女を気に入ってしまっていたが、マスターの話を聞けば、なるほど、彼女を忘れることができるだろう。
だが、運命というものがそう簡単に先を分からせてくれるだろうか。先が見えないから面白いのかも知れない。
「一緒に見えない先を見ていきたいね」
小声で彼女にそういうと、ニッコリ笑い返してきたその笑顔が、またしても忘れられそうにない坂上であった……。
( 完 )
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次