短編集117(過去作品)
気さくな笑顔が店の異様な雰囲気を和らげてくれる。SM系のクラブと言っても、何かが始まるまでは普通のスナックと変わりはない。高級感が垢抜けていて、水割りの酔いがいつもよりも早くまわってくるようだった。
――マスターと、女の子、何も関係ないのだろうか――
SMのパートナーというのがどういうものか、ハッキリと分からないが、人に聞いた話では、恋愛関係になくても、パートナーとしてプレイをするだけの関係というのもありだということだった。あくまでも平静を装っているのは、それが店での彼女の役割のようなものかも知れないと考えると、どこか納得の行くこともありそうだ。
「初めてのお客さんは、ここに来られると時間があっという間に過ぎてしまわれるそうですよ」
「そうですね。確かにこの雰囲気は、酒に酔うのと違う雰囲気で客を酔わせてくれそうです」
あまり酒を呑むほうではない坂上には、酒に酔うということ自体、あまり実感が湧かない。ビールなど特にお腹を太らせるので、実際のアルコールだけではなく、お腹にもたれる感覚の方がきついのかも知れない。
店に入って五分ほどしか経っていないと思っていたのに、時計を見ると三十分も経っている。
――そんなバカな――
五分が十分でもかなり違うと思うのに三十分ともなると、自分の頭がおかしくなったのではないかという錯覚すら感じさせる。暗示に掛かりやすいタイプであることから考えると、五分ほどしか経っていないことが本当で、時計がおかしいと思う気持ちが先に立っていると思っているが、実は時計が正しく、自分の感覚が間違っていると思う方が、幾分か辻褄が合う。
それもマスターの話を聞いた瞬間に、暗示に掛かってしまったに違いない。
身体が次第に熱くなってくる。店の雰囲気とマスターの話、そして何よりも気になる女の子がいるということで、どこか違う世界に紛れ込んでしまったようだ。
時間が経つのが早いせいか、気がつけば午後十一時になっていた。表に出ると冷たい風が酔いを覚まし、次第に薄れいく記憶を感じていた。
普段であれば、もう寝ている時間である。一歩歩くごとに気だるさが襲ってきて、家までの道のりが億劫にさえ感じられた。
それでも表の風は気持ちよく、歩いているうちに、また汗が滲んでくるのを感じる。
今まで羞恥心というものを意識したことがなかった。恥ずかしいことを恥ずかしいと思うのは普通のことで、むしろ本能によるものだと思っていたので、誰もが当たり前のこととして意識しているのだと思っていたのだ。
だが、場所によっては、羞恥心というものを真剣に考え、自分の中で試行錯誤を繰り返している人がいるという。マスターとの話の中で、一番感銘を受けたのが羞恥心に対しての考え方だった。
何も縛りや責めだけがSMの世界ではない。羞恥心をくすぐることによって、自分の何たるかを見つめなおす人の真剣な気持ちをまわりが汚いものを見るような目で見ることのおろかさを感じさせられた。
その日、見た夢、それは、SMの夢であった。
気になる彼女が縛られている。以前の坂上なら、
――助けなければ――
と思ったことだろう。
だが、助けてはいけないと思う自分がいることを感じると、夢を見ていることに気がついた。
マスターの言葉を思い出した。
「初めてのお客さんは、ここに来られると時間があっという間に過ぎてしまわれるそうですよ」
夢というのも後から考えると、あっという間に過ぎてしまったかのように思う。元々夢とはまったく違う次元のものだと思っているから不思議はないが、クラブでの時間は明らかに異様だった。
夢の中で、クラブの雰囲気が醸し出されているのだから、何もないところから新しく自分の世界に引き込んでいると思うと、あっという間に過ぎてしまう時間すら、自分の思いのままになっているように思えてならない。
夢の中で悲鳴をあげる彼女、夢の中では声はおろか、空気の流れさえ聞こえないと思っていたはずなのに、ハッキリと声も空気の流れも感じることができた。
夢だと思いながら、以前に見た光景なのかも知れないと思っていたのも事実で、それもごく最近に見た記憶があるのだ。ごく最近のことでも、覚えられないことが多いことから、記憶には幾層にも段階があるのではないかと思えてきた。
坂上は、自分の中に変なプライドを持っているのではないかと思うことがある。SMに対して、まったく興味がないつもりでいたが、行ってみると、何か興味を引かれるものがあった。それは、今まで自分の中のプライドが、
――SMなんて――
という気持ちで、邪魔をしていたからに違いない。
それは坂上だけに限らず、誰もが同じではないかとも思っていて、育ってきた環境、あるいは、公序良俗に照らし合わせても、決して、善良な風俗に当たるとは思えなかった。
しかし、
「SMとは、西洋では紳士の高級な遊び」
として位置づけられていたりもする。昔から人間の中には同じような欲望や、人に言えないような性癖があり、人に言えないという感覚が根付いていたのだ。
あまりにも極端な性癖は、犯罪を招きかねないということも言えるだろう。
昨今の凶悪犯罪を見ていれば、SMの世界や、マニアックな人たちがさらに肩身の狭い思いをさせられることも少なくない。
タバコを吸う人の感覚に似ているかも知れない。
ここ二十年くらいの間に、嫌煙権が秩序から法律へと変わっていき、喫煙者のマナーがそのまま法の裁きへと直結していく。
それでも中にはマナーを守らない人がいる。二十年前であれば、それほど目立たないが、今、マナー違反をすれば、皆から白い目で見られる。
「喫煙者は、やっぱりマナーが悪い」
ということになりかねない。
それも一部の心ない人のためにである。ほとんどの喫煙者がキチンとしていると、それだけ目立つのである。
SMの世界にしてもそうである。
皆地下に潜って、地味に自分たちの嗜好を楽しんでいるのに、凶悪犯罪を犯した人がSM嗜好者だったりなどすれば、
「やっぱり、異常性癖なんだわ」
と、いうことで、皆が変な目で見られてしまうだろう。
異常という言葉はどうしても敬遠してしまう。
今よりも自分たちが子供の頃、さらには親が子供の頃の方が、異常性癖に対して白い目で見ていたに違いない。
特にイデオロギーが支配していた時代は、一定の考えや主義主張でないと認められない時代があった。
言論や思想の自由が許されない時代である。今からは考えられないことだが、そんな時代でも自分の性癖を暖めていた人はいたようだ。
小説として残っていたりすると、時代背景を考えて読んでいると、神秘の世界に引き込まれることがある。小説の世界だからといって、バカにしたものではない。素晴らしい芸術作品に仕上がっているものもあるのだ。
坂上は自分のプライドを、天邪鬼なところだと思っていた。
自分はミーハーが嫌いで、人が好むものばかりに協調することはなく、自分独自の世界が存在しなければ満足できない。これを果たしてプライドと呼んでいいのかははなはだ疑問であるが、坂上の中ではプライドだと思っている。
作品名:短編集117(過去作品) 作家名:森本晃次