小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ファイブオクロック

INDEX|7ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

「その人は男なんですよ」
 という、
「どうしてそう思うんですか?」
 と聞かれた人は。
「その人はいつも、濃いひげを生やしているんですよ。あご髭だったり、口髭が、明治の元勲や軍人のように伸びているわけではなく、朝にはカミソリを使ってちゃんと剃って出かけているのに、夕方になると、自然と伸びているという、なんていうのかな? 夕方に伸びているそんな髭が特徴なので、きっとその人は男性なんですよ」
 というではないか。
「きっと男性って、ハッキリと顔を見ているわけではないの?」
 と訊かれると、
「ええ、その人の顔でハッキリと分かるのはいつも、その髭が濃いというところだけなんですよ。たぶん、違和感がないということは、会った時には意識の中にあるんだろうけど、後になって思い出そうとすると、髭しか覚えていないという、おかしな感覚になっている。記憶なんて結構曖昧なものなんだなって、その人と一緒になるたびに感じるですよ」
 と言っていた。
 この感覚は他の人には理解できるものではなかったが、三郎なら分かったかも知れない。三郎はまだ子供なのに、大人の会話に参加することはない。だから、理解できるとしても、そこに接点がない分、二人が会話をすることはない。
 だからこそ、この人のウワサが広まるのを制御することはできなかったし、子供に話が伝わった時には、まるで伝言ゲームのように、ねじ曲がった話として伝わっていて、三郎少年が興味を持つような話になっていないのは、
「何かの作為が働いているからではないか?」
 と思われても仕方のないことのように思えた。
 そのおかげで、ウワサに戸が立つことはなく、万遍なく、ウワサとして広まった。そこに何かしらの都市伝説的な曰くが入っていれば、このウワサは、タブーとなって、
「決して話してはいけないこと」
 という感覚で、七不思議の類に数えられ、誰も意識をしなくなるかも知れなかった。
 何かの作為があるとすれば、そこなのだろうが、そんなことを人間が意識的にできるはずもなく、できるとすれば、かなりの大きな欺瞞が働いているに違いない。もし、このことも全体として見ることができる人がいるとすれば、三郎少年しかいないだろう。実に皮肉なことであり、オカルト的な発想とすれば、そこにあるのは何かの犯罪の匂いではないかと思えてきた。
 それこそ子供の発想であり、大人であれば、妄想である。大人は妄想を悪いことだと思っているようだが、そもそもその発想が妄想を都市伝説として片づけてしまうことに繋がるのではないだろうか。
 それがその人の特徴だといえば、その通りなのだろうが、髭が夕方になると濃くなるというのは、別に都市伝説でも何でもない。一般に言われていることであり、
「ファイブオクロックシャドー」
 という言葉にもなっているくらいだ、
 ただ、ここから先の話は、かなり後になってから分かってきたことであるが、この人に髭があるということが分かるまでと、分かってからでは現れ方が違っていたのだ。
 そのことをどうして他の人が誰も気づかなかったのかというと、出現の仕方に変化があるわけではなく、現れる時間に違いがあることだった。ハッキリと言えば、髭を意識するまでというのは、
「時間が決まっていたわけではなく、夕暮れに合わせての出現だった」
 ということである。
 つまりは、微妙ではあるが、毎日夕暮れの時間というのは少しずつ変わってきているということである、それを人間は季節の違いでしか感じることはない。夏であれば、夜と言ってもいいくらいの午後七時を過ぎても、まだボール遊びができるくらいの明るさがあるのに、冬になると、午後五時にはすでに真っ暗になっているほどの差がある。
「冬至と夏至」
 という言葉があるように、昼が一番短い日と、一番長い日が存在し、さらに彼岸と呼ばれる日は、昼と夜の長さがまったく同じ日になるのだ。
 毎年日にちが決まっていないのは、厳密には地球の構造によるものなのだが、ここで言及する必要もないだろう。
 そんな毎日の普遍的な時間に最初の頃はその人が現れていた。
 しかし、その人が
「髭が目立つ」
 ということを言い出したその頃から、その人を目撃するのは夕方の午後五時というハッキリした時間であることは、皆熟知のこととなった。
 夕方の五時ということに異論を抱く人は、その人を見たことのある人の中には。一人もいなかったのだ。
 なぜそんなことが分かるかというと、毎日午後五時になると、行政が市内に向かって音楽を流すからである。
 このあたりに聴かれる音楽というのは、
「ドヴォルザーク交響曲第九番の第二楽章『ラルゴ』」
 である。
 分かりやすくいえば、
「新世界より」の中の「家路」という曲だと言えば、分かる人も多いのではないだろうか。
 昭和の頃、
「遠き山に日は落ちて」
 というタイトルで、小学校の音楽の教科書に載ったことから、有名になり、原罪では、学校や公共施設などが、夕方の帰宅時刻などを告げる音楽として、世間一般に広がりを見せ、皆周知の温覚となっていることは、有名な話であった。
 だから、この人の出現のテーマ曲となっているのが、
「家路」
 ということになる。
 ちなみに、同じ市内でも、いくつかのスピーカーから流されているようで、別の場所からも、音はかすかにはなっているが、若干遅れて聞こえてくるのが特徴的だ。
 もしまったく時間にずれがなければ、普通の人は何か所からも音が聞こえてくることに気づかないだろう。
 それは、音というものが空気を伝わってくる時に光などに比べて遅いからではないだろうか。
 雷が、距離によって、光と音との反応がずれてくるのと理屈的には似ているのではないかと思うのだ。
 その人の出現には、最初からいろいろな曰くが感じられたが、その曰くが分かっていなかったから、皆不気味な存在としてその人の存在を信じられないのだと皆が感じていたのかも知れない。
 その人を誰かが毎日のように見ているのだが、なぜか何人かで見ているはずなのに、覚えているのは一人だけなのだ。
 その時に他に誰かがいたはずだという意識はあるにも関わらず、その人にいざ記憶の有無を確かめてみようとするのだが、
「あれ?」
 と感じて、それができなくなる。
 なぜかというと、その時にまわりにいた人が誰だったのか、記憶から消えてしまっているからだった。
 自分のとっての、
「夕方の音楽」
 というと、
「家路」
 だけではなく、
「夕焼け小焼け、赤とんぼ」
 などが定番だった。
 小学校では、赤とんぼが流れていて、学校の近くでは、少し離れたところから普段は聴かない音楽が聞こえてくると思ったが、それが、
「赤とんぼ」
 だったのだ。
 まるで音楽の授業で聴いたような輪唱を思わせる。小学校での輪唱というと、
「カエルの歌」
 が定番だったが、意識しての輪唱と、距離があることで出来上がった輪唱とでは、明らかにその完成度は違っている。
作品名:ファイブオクロック 作家名:森本晃次