ファイブオクロック
もちろん、まだ子供の三郎に、親の育ってきた環境や、実際の精神状態を計り知ることができるはずもなく、ただ、親が世間体を気にすることに、なぜ自分が違和感を覚えなければいけないのかが疑問だった。
ただ単に世間体を気にしているだけであれば、そのことを容認できるかできないかというだけのことで、違和感を覚えるかどうかという問題ではないはずだ。
それなのに、違和感があるということは、その違和感は両親のことへの考えとのギャップにあるということまでさすがに考えが及ばないことで、これも、両親を訝しがる一つの原因であった。
――確かに世間体を気にするのは、自分としては嫌なことだ。だけど、ある程度までは必要なことであるというのは分かっているつもりだ。それなのに違和感を感じるというのはそれだけ両親の考え方の中に、矛盾のようなギャップがあるからに違いない――
と感じるのだった。
その頃、両親の背中を見ながら歩くことが多かったような気がする。それは別に親に遠慮しているからではない。一番前に立って歩いていると、後ろからの視線が気になって、まともに前を向いて歩けないという意識と、横に並んでいると、まわりから仲のいい家族として見られることを嫌だと思ったからで、そうなると、消去法で最後に残ったのは、自分が親の後ろから歩くということだけであった。
三郎と親との関係は、
「消去法で成り立った親子だ」
と考えていた。
これは、自分だけの考えではなく、まわりの子供も感じていることなのかも知れないが、自分にとって嫌なことを排除していくことで、結果、最後に残ったものが明白になるということは、明らかにその一つ以外は、嫌だということになる。
一つのことを決めるのに、正しい尖閣が出やすいという意味では消去法も決して悪いことではないのだろうが、そこに至る過程として、嫌だと思うことが多すぎるのは、決していいことではないと感じる三郎だった。
三郎が、自分の足元の影を追いかけている感覚は、いつも追いかけている親の背中とは違って、新鮮さがあった。
三郎は影というものを本当は、
「怖いものだ」
と感じていた。
それは、テレビ番組で見た特撮ドラマで出てきた影の怪人を思い出すからだった。
影が特殊撮影で、急に立体化して、人間に襲い掛かるというものであったが、影が立体化するという撮影は、今の時代であれば、もっと高度な作り方ができるのだろうが、リアル感よりも、より恐怖を煽る形での撮影には、敢えて昔からの撮影方法が用いられたことで、今のリアル特撮に慣れ切っている子供には、新鮮に映ったことだろう。
それは影のシーンにこだわるだけではなく、他の場面でも用いられることで、特撮の幅を広げている昔気質の監督もいたのだ。
そのせいか、影に対しては特別な感情を持っていた三郎は、足で踏みつけることで、広がろうとする影の勢いを自分で止めているような感覚に入っていた。
それは正義感のようなものから来ているのではなく。恐怖に裏付けられた感覚であり、夕方という特殊な時間が、余計に三郎を駆り立てるのかも知れない。
夕方が特殊な時間だと思うのは、たくさん夕方言われている伝説めいた迷信があるのは少しは知っていたが、少なくともリアルに足元から伸びる細長い影への恐怖などに代表される恐怖であった。
昔の人が夕方にどういう思いを馳せて、夕方というものに恐怖を感じていたのか分からないが、他の時間には感じない黄昏の色、その色を見ただけで、身体に反応を与える倦怠感、それらは自分の中の何に答えろ見出そうとしているのか、分かっていないことで感じることなのではないだろうか。
しかし、もっと怖いのは、一心不乱に足を踏み出し、余計なことを考えずに影を追いかけていると、どれくらいの時間が経ったのか、先に見える丘の上が、少なからず近づいてくるのを感じているはずなのに、まったくその長さを近づいたと感じさせないというのは、おかしなことだと言えるのではないだろうか。
思わず後ろを振り向いてみる。すると、明らかにかなり進んだということが分かる、その理由は、かなり高いところまでやってきていて、眼下に見下ろす光景は、駅の向こうまで伸びている線路、さらに高速道路の高架まで見えていた。
かなり高いところまで来なければ、分からない場所だからである。
またしても、進行方向に向き直ると、まだ西日の残る明るかった方向から、西日を背にして最後の光を反射して何とか明るさを保っていた光景に戻ってきたはずなのに、すでに街灯はついていて、足元の影は太陽からの影ではなく、街灯による影に替わっていた。完全にこちら側は夜と化していたのである。
急激な目の前の変化に、さほど違和感を感じ名がったのは、足元の影の異様さを感じていたからだ。
街灯に照らされた影を見るのは初めてではないくせに、足元に見えているものに違和感を感じたのは、さっきの細長い影とのギャップを感じたからだった。
それぞれを単独で感じたことは今までにも何度もあった。
しかし、立て続けに、連続する形で感じるのは初めてだったので、自分でビックリしてしまったのだ。
足元の影は明らかに太陽がもたらす影に比べて暗いものだった。
なぜなら、太陽の明るさはいくら西日とはいえ、元々の明るさを自分が遮ることで出来上がった影である。
しかし、街灯の影は、基本、真っ暗な状態に照らされた自分の姿を、まるで浮かび上がらせているようにも見え、さらに、街灯は一か所ではなく、一定間隔の距離を保って、暗くないように計算された位置に配置されている。明るすぎるわけでもなく、暗さも兼ね備えているという少し可笑しな表現であるが、歩いていると、片方は遠ざかっていき、片方は近づいてくるという状態で、角度もそれぞれに替わってくるので、足元から放射状に見えるいくつかの影が、自分の足元を中心に円を挙げくようにしてクルクルと回っている感覚に陥っていた。
――まるで、笠をクルクル回しているような感じだ――
と思うと、前に見たテレビでドラマのシチュエーションの中で、斜め上から傘を差している女性を見ていて、傘の中がそんな人なのか分からなかったが、傘をクルクルと回しているのを見ると、その人がお嬢さん風であることに気づいた気がした。
そのお嬢さんは、真っ白なドレスを着ていて、普段の自分なら近づくことっもできない女性を感じさせた。
しかし、その女性は病に侵されていて、いわゆる、
「薄幸の美少女」
という雰囲気を醸し出していた。
最後の、
「薄幸の美少女」
という発想はあくまでも、三郎の妄想でしかないのだが、間違っていないような気がして仕方がなかった。
ただ、薄幸というのは、本人がどう考えるからいうだけで、本人が幸薄だと思っていなければ、薄幸とは言わないのではないかというのは、勝手の思い込みであろうか。
坂道を歩いていると、いろいろな想像、いや、妄想が沸き上がってくる気がする。
妄想が想像となるのか、想像が妄想になるのか分からないが、想像も妄想も紙一重の出界のことではないだろうか。
この、
「日暮坂」
という名前も何となく微妙な気がする。