ファイブオクロック
中には、デップリ太った、歩き方からして滑稽なのに、その顔はペシャンコなくせに、愛嬌を振りまいて、憎めないイヌがいた。
小型犬のその犬はペキニーズという種類のイヌで、飼い主の人がいうには、
「実に気まぐれなイヌで、飼い主に対しても、気分やなところがあって、愛嬌を見せないことがあって困っているのよ」
と笑っていたが、子供たちには結構人気のようだった。
最初は他のイヌと同じで、結構吠えられるが、慣れてくると吠えなくなる。しかし、他のイヌと違うのは、慣れたはずなのに、急に吠えてくることがあるから厄介だ。飼い主から、
「気まぐれなイヌ」
という話を訊かされているから気にはならないが、
「なるほど」
と思わせるところは、一緒にいて楽しいところなのだろう。
「この子が飼い主の私たち以外で。本当になついている人が一人いるんだけど、その人は毎日、この子の相手をしてくれるんだよ。三十歳くらいの人じゃないかな? いつも帽子をかぶっていて、少し華奢な感じなんだけどね。でも、これは珍しいことなんだけど、この子は、自分が太っていることをきにしているのか、あまり華奢の人には心を開かないんだよ。だから、基本的に、子供には人気があっても、そんなこともに従うようなことはしない。面白いでしょう?」
と飼い主は言った。
三郎は、このイヌと何度か顔を合わせて、もうほとんど吠えられることはなくなっていたが、なぜか、飼い主さんのいう、このイヌがなついているという華奢な身体つきの人を、いまだに見たことがなかった」
「その人はいつも何時頃に来るんだい?」
と飼い主に訊いてみると、
「そうだねえ、日暮れちょっと前くらいかな? これは時間に関係なく、その人が来て、このこと遊んでくれるとちょうど日暮れを迎えるんだ。だから、時間としては決まっていないんだよ」
と言われて、その頃には、日の出日の入りが季節によって違うということを分かっていたので、飼い主の言いたいことの意味が分かる気がしてきた。
「だから、会ったことがなかったのかな?」
言われてみれば、自分が公園を後にするのは、日暮れ前だった。日暮れまで遊んでいても、ボールが見えるわけではなく、まだ、太陽がビルの影に隠れる前に遊びは終わって、犬たちの相手をするのが、三郎少年たちの日課だったのだ。
「遊び疲れた後で、イヌを見ていると癒される」
こんな気持ちも、ゲームばかりしている連中に分かりっこないというのも、表で遊ぶ醍醐味であった。
今では表で遊ぶことが、子供の本当の姿なんだと思うことができる三郎少年だった。
あれはいつのことだっただろうか、公園からの帰り道のことだった。
その日は、まだ夏の終わりくらいのことで、時間とすれば、すでに午後六時半を回ったくらいだっただろうか。秋を過ぎて、冬が近づいてきた今となっては、すっかり日も暮れて、夜のとばりが降りている時間であった。
公園からの帰り道、小さな丘があるのだが、そこに差し掛かる道に、
「日暮坂」
と呼ばれるところがあり、ちょうど住宅街になっているところであった。
住宅街というのは昔から存在している街並みで、今は別のところにも住宅街が開発中であるが、新しく住宅街ができるとなると、急にこの住宅街が古めかしく感じられるようになったのは、住宅街に住んでいる人よりも、むしろこの住宅街を表から見ている人たちであった。
この日暮坂界隈には、学校も郵便局も交番も揃っていて、この住宅街ができた昭和の終わりころは、このあたりが街の中心にも近いということで、たくさんの人が都心部から移住してきたとのことである。
丘の上の方には、大きな総合病院もできていて、この住宅街の人たち以外もたくさんやってきているのだが、最近は病院への通院者も多くなっていて、丘の上の病院行きのバスも、結構人が多いようであった。
三郎少年の家から駅までは、歩いて行ける距離でもあり、バス停も少々距離があるので、そのバスに乗ったことはなかったが、日暮坂の途中にバス停があり、そこで停まっているバスを見ていると、夕方などは、駅に向かうバスの乗客が結構多いのにはビックリした。
駅からのバスであれば、会社から帰る通勤時間ということもあり、多いのは分かるのだが、駅に向かう客が結構いるのは、患者だけでなく、入院患者のお見舞いも多いからではないかと、子供心に考えていた。
その日は、九月に入ってからもずっと暑い日が続いていて、久しぶりに、最高気温が三十度くらいに下がった、夏の終わりを感じさせる九月下旬だった。
涼しくなってきたことに違和感がなくなったのは、それまで感じていた夏を感じなくなったからだ。それは、セミの鳴き声であり、セミの鳴き声がほとんど聞こえてこなくなった代わりに、スズムシやコオロギなどの声が聞こえるようになったのが、秋を知らせる音だと思っている。
だが、それでも、坂を歩いて昇っていくと汗も掻くもので、正面を見上げながら歩いていると、なかなか辿り着かない次の角までの果てしなさが感じられるくらいだった。
「ふぅ」
と思わず声を出して、少しだけ下を向いて歩いてみた。
すると足元からの影が、細長く伸びていて、自分が西日を背に歩いているということをいまさらながらに思い知らされた気がした。
まっすぐに前を見て歩いていると、
――自分の影を踏めるのではないか?
という、まるで小学生の考えそのものの、子供らしさに思わず、我ながらの可笑しさを感じた。
少し早歩きになって、大股で歩きながら、自分の影を踏みつけようとするのだ。
しかし、そのうちに、それが無駄な抵抗であることに気づいてくる。バカでもなければ、すぐに分かることだった。
三郎少年は、自分のことを決してバカだとは思っていない。しかし、勉強のできる賢さだとも思っていない。それは、両親からの遺伝を自分で認めることになるからだった。
両親のことが嫌いな三郎は、自分がかしこいと認めてしまうと、それが親の遺伝だということで片づけられるのを恐れたからだ。
何かにつけて臆病な両親。しかも、両親ともに、別々の違う性格を持っている。それも、三郎が毛嫌いしそうな性格である。
どんな性格だと言えばいいのか、表現には困るが、少なくとも、
――あんな大人にはなりたくない――
と感じる大人であった。
小学生の子供にすら、子供心に考えただけで、そこまで思わせるのだから、相当なものだったことだろう。
実際に前章で記したことは事実であり、両親ともに、気持ちの中に隠されたものであった。
「大人という者にならなくてもいいというのであれば、僕は敢えて大人になんか、なりたくはない」
と思っていた。
そんな風に自分を考えさせる両親に対して憤りを感じ、ひしひしとこみあげてくる怒りを、自分なりに隠すことができなかった。
一つ両親のことで気になっているのは、自分たちが世間から隔絶したところにいるくせに息子である三郎に対して、世間体を気にする素振りをするところが、三郎には違和感があった。