ファイブオクロック
母親は仕事を辞めたとはいえ、一応教師であった。ただ、その実情は、授業などとは決していえない無法地帯での立ち位置に、きっと後で思い出すと顔が真っ赤になってしまいそうな凌辱を受けていた自分が、まるで他人のように思えるだろう。
さすがに凌辱を受けていたと言っても、それは目で見られることの凌辱であり、いわゆる、
「視姦」
とでもいうべきか、男子生徒の瞼に写る自分が、逃れられない凌辱の中にいることを快感のように感じていたのだ。
――夫にも感じたことのない自分を曝け出す快感――
それをそのうちに黙っているのが耐えられなくなっていた。
――時間が経てば、こんな思いは次第に薄れてくるだろう?
とタカをくくっていたのは、まだ三郎が三歳くらいの頃のこと、幼稚園に上がり、小学生になっても、母親の中の血潮は決して冷めることはなかった。
三郎が幼稚園に上がり、他のお母さんたちを目の当たりにしていると、いかに自分が他のお母さんたちと違っているかが分かってきた。
幸いにも、他のお母さんたちから見て、それほどの違いを感じさせないところは、ある意味さすがあのかも知れないが、却って目立たない立ち位置に自分を置いて、しかもそのことでホッとしている自部が本当の自分なのかと考えていくと、我慢できない自分を、いかに満足させるかを、無意識に感じている自分がいた。
そんな自分をいとおしいと思うのは、やはり自分が、
「人と同じでは嫌だ」
と感じるからであろうか。
これが父親との一番の違いであり。父親にはそんな思いがまったくない。ただの臆病者でしかなかったのだ。
そんな父親を母親は次第に蔑むようになってきた。
三郎が小さかった頃というのは、どうも近所との折り合いもよくなく、クラスメイトの親ともしっくり来ていなかったので、友達の親からは、
「四宮さんのところの子供とは、遊んではいけません」
と言われていたに違いない。
子供というのは、理由も分からず、親のいうことはある程度の年齢までは従順に聞く者だ。そんな頃に押し付けられた印象派、そう簡単に外れるものではなく、誰も三郎と打て会う人はいなかった。
それでも、わんぱくと言われる子供たちだけは別のようで、いや、そもそも、そういうわんぱくと言われる子供たちも、大なり小なり、まわりから、
「相手にするな」
などと言われている連中ばかりで、
「同じ穴の狢」
と言えるだろう。
正統派とでもいうべきか、多数派の子供たちは、部屋でゲームに勤しんでいたり、ゲームなどを通してしか会話もできない子たちだが、わんぱくと言われる子供たちは、皆顔を見て会話をし、お互いのコミュニケーションを図っていた。
三郎も十歳くらいになってくると、自分たちの方が引き籠ってゲームばかりして遊んでいる連中よりも健康的で、はるかに正常な気がしていた。だが、大人たちは表で遊んでいる連中を見ても、
「原始的だわ」
だったり、
「まるで昭和の時代の子供みたい」
と言っていた。
自分が子供の頃くらいから、引きこもりや苛めなどが本格的な社会問題になり始めた頃であろうか。
家族崩壊だったり、学級崩壊などという言葉があったり、苛めやDVなどが問題になる頃で、自分たちも大人が信じられず、引きこもっていたはずなのに、どうして表で遊んでいる連中をそんなに毛嫌いするのかが、分からないという大学の先生もいたりした。
子供も、自分が大人になると、子供の頃に自分の親に感じていた。
――あんな親にだけは絶対になりたくない――
という思いを忘れてしまったのか、結局同じような親になってしまっている。
それは、
「親と子供とでは、立場も目線も違うからだ」
ということだけで片づけてもいいものだろうか。
だが、今回のこの物語で重要な役目を果たすことになる、
「三郎少年」
は、そういう子供とは少し趣が違っていた。
まだ、十歳であるが、親に対しては、あからさまに反抗してみる。嫌なものは嫌だとハッキリ自分で言える、そんな少年だった。
もちろん、まだ子供なので、それが言える相手は自分の親だけであるが、それも親の臆病な部分を分かっているからであり、十歳の子供がそこまで見破れるのは、それだけ子供が賢いからなのか、それとも、親の方が情けないからなのか、分かりにくい部分であった。
ただ、そのどちらも大きいのではないだろうか。そのおかげで三郎少年は他の子供にはない、
「奇抜な発想の持ち主」
ということになり、たまに大人がビックリするような行動をとることで、周囲をハラハラさせる子供でもあった。
だが、それもこの少年のいいところなのであろうが、
「面目躍如」
と見られるようになるとは、この時に誰が想像したであろう。
ちょうどこの頃、三郎少年の住む街に、えてして、
「昭和ブーム」
なるものが静かに巻き起こっているのを、まだ大方の人たちは知らなかった。
それを示すかのような、最近の区画整理。すでにマンションなども立ち並び、都会へのベッドタウンとしての開発は済んでしまったと思っていて、後は落ち着いた街づくりが求められると思っていた住民には、まだまだ想像のつかないことであろう。
区画整理も、ただのマイナーチェンジくらいのもので、新たなショッピングセンターでも経つのではないかと思われるくらいのものだった。
だが、実際には、その最終目的に、国の方針が絡んできて、ゴミ問題に対応するための大きなゴミ処理工場を、この街の外れに建設しようという行政と、土建屋の画策が、水面下で進んでいるのを、まだほとんどの住民は知らなかったのだ。
静寂の中の倦怠感
三郎少年がいつも遊んでいる公園は、市内でもまあまあ大きな児童公園だった。中央には金網のネットで仕切られた、檻のような場所で、球技ができるようになっている。
さすがにバットの使用は禁止されているが、サッカーボール、バスケットボール、やきゅうもキャッチボールくらいは許されていた。だが、許されないことであっても、誰もが従うわけではない。最初の頃こそ、バットを使う人はいなかったが、途中から誰かが使うようになると、後は歯止めが利かない。立札はあるが、
「そんなもの、守るやつなんかいるもんか」
と言われるのが関の山だった。
夕方近くになると、学校帰りの中学生などが、野球に勤しんでいる。金属バットの鈍い音が響いているが、決して上手とはいえないバッティングなので、表まで打ち出せるだけのテクニックを持ったやつもいないのは、不幸中の幸いだった。
公園のまわりは遊歩道になっていて、こちらもスケートボードは基本禁止なのだが、それでも集まってくるのは、スケボーを楽しみに来ている連中が多く、アクロバット的な技を繰り出すたびに、木製の乾いた音がコンクリートの遊歩道にこだましていた。
そんな中、同じ遊歩道を犬の散歩に興じている人たちもいる。小型犬や中型犬がほとんどなので、子供が寄って行っても、それほど危なくはない。小型犬などは、怖がりなせいもあってか、すぐに吠えるが、慣れている子供が頭を撫でると、イヌ派すぐに尻尾を振って従順になっていた。