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ファイブオクロック

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「お前のいう世界の果てあった五本の柱というのは、どんなものなんだ?」
 と訊かれて、
「天にも届きそうな細長い柱で、等間隔に立っているものだ」
 というではないか。
 するとお釈迦様は、
「お前の書いた名前というのは、これではないのか?」
 と言って、孫悟空を自分の掌の上に乗せると、掌の指を徐々に狭めようとする。
 押しつぶされまいとする孫悟空であったが、その時に何気なく見たお釈迦様の指の先に、見覚えのある文字が書かれていた。
 それを見た時、孫悟空は何かで脳天を叩かれたような驚愕を覚えた。
「こ、これは……」
 とでもいったであろうか、
「どうだ? お前の力というのはそんなものなんだ」
 とお釈迦様に言われて、孫悟空は自分がいくら逆らっても、お釈迦様には適わないと思ったことだろう。
 その時に、お釈迦様と同じくらいの力を持った者が他にもいるというのを知ったかどうか、少なくとも慢心が打ち砕かれたのは間違いのないことだったであろう。
 そんな時に見たお釈迦様の後光の眩しかったことは、孫悟空にとってはひとしおだったに違いない。
 お釈迦様には孫悟空の慢心をいさめるということだったのだろうが、孫悟空とすれば、お釈迦様への忠誠心が生まれた瞬間だったかも知れない。ドラマであり、お釈迦様が万能の神でもあるかのように描かれているが、実際には、どこまでが本心なのか分からない。お釈迦様とすれば、そこまで孫悟空の自由を奪うという気持ちはないかも知れないが、忠誠心を抱いた側の方が気持ちとしては大きかったのかも知れない。
 そんな孫悟空の話もあるのだが、それを思い出すくらいに、その時に見えたその人の後光には驚かされた。
 だが、実際にその後光がお釈迦様のように、
「ありがたいもの」
 というイメージで考えていたら、とんでもないことである。
 あの人にはお釈迦様のようなお慈悲があるわけではなく、
「慈悲などありえない」
 と言える存在なのではないだろうか。
 そう思いながら、見つけたその人を追いかけるように歩いていた。自分では思ったよりも早く歩いているつもりだったが、なかなかその人に負いつくことはできない。相手も早歩きをしているわけではないのが分かっているだけに、自分の早歩きがまるで、雲の上でも歩いているかのようなもどかしさになってくる。
 足元を見ながら歩いているのであれば、それも仕方のないことかも知れないが、歩いているのは、相手の後ろ姿を見ながらであった。それは、まるで孫悟空が、お釈迦様の掌ぬうえで転がされているかのようであった。
 そういえば、先生が面白いことを言っていたのを思い出した。
「掌の上で踊らされるという言葉と、転がされるという言葉、微妙にニュアンスが違うんだが、どういうことだか分かるかい?」
 と言われた。
 さすがに小学生の四年生には難しいことなので、
「分かりません」
 と答えると、先生が教えてくれた。
「掌の上で踊らされるというのは、うまい言葉に乗せられるというような意味になるんだ。つまりうまい具合に操縦し、自分に有利な形に導くというのが、踊らされるという場合のことなんだよ。逆に転がされるというのは、完全に相手の操縦する通りに動かされるということであり、完全に相手に支配されているということを示すんだよ」
 と教えられた。
 すると孫悟空の場合などは、
「掌の上で転がされた」
 ということになるのだろう。
 相手に対して優越感を示したかった人にとっては、出る杭を折られたようなものであろう。
 それを考えると、しっかりと相手を見ているはずなのに、自分の意思通りにいかないことを、相手に踊らされていると考えるか、転がされていると考えるか、その微妙な感じ方によって、相手に対しての自分の立ち位置が違っている。
 孫悟空とお釈迦様ほどの差が、同じ人間同士にあるとは思えないので、踊らされていると考えるか、転がされていると考えるかは、その人次第なのではないだろうか。
 その人の背中がなかなか大きくもならないし、小さくもならない。
 近づいているのは間違いないが、相手が次の瞬間にはその距離を広げているということなのかも知れない。
 お互いに呼吸が合わないだけで、こちらが動いていると相手が停まっていて、こちらが停まっていると相手が動いているという、まるで次元の違いを感じさせるものだった。
――まさか、前を歩いている人って、自分なんじゃないかな?
 と感じた。
 その頃には、ドッペルゲンガーなどという言葉は知らなかったので、ただ、
――自分と同じ人間がいれば、それは怖い存在だ――
 と考えているだけだった。
 しかし、これも先生と話をした中で、
「自分と同じ人間が、同じ時間の同じ次元に存在しているというのを見たという人が今までの歴史の中にはあって。そんな人はことごとく、見たという近い将来に死んでいるんだよ」
 と言われた。
 それをドッペルゲンガーというのだということを後になって知ったが、ドッペルゲンガーという言葉は、それまでにどこかで聴いたことがあったような気がしていたのだ。
 先生が言っていたのは、
「世の中には自分に似た人が三人はいると言われているんだけど、自分と同じ人間は、似た人ではなく、自分そのものなんだよ。だから、ありえない状態で存在しているから、それを見ると、死んでしまうという考えもあるんだよ。ただね、医学的に、あるいは、科学的に別の見地で解釈する考え方もあるので、それをどう解釈すればいいのか、考えるべきなんじゃないかな?」
 ということだった。
 その時の三郎少年は、何か怖いものを聞かされたという意識があった。
 何が怖いのかというのは、ハッキリとした言葉で証明できるものではない。
 それだけに、今回得体の知れない人物を追いかけることに、恐怖がないわけではない。本当であれば、足が竦んで歩けないほどの恐怖を感じているはずなのに、
「今回ばかりは、自分でその正体を突き止めないわけにはいかない」
 というような考えが頭の中にあるのだった。
 さらに少年は、その人を追いかけていった。
 なるべく見つからないようにしようとは思いながらも、何しろ、逃げるところがないだけに、気付かれて、後ろを振り向かれれば、気付かれるのは分かっていた。だが、気付かれた時は、知らんぷりをすればいいだけだと分かっていたので、逆に、自然体の方が、追いかけているという意識もなく、相手も追いかけられているという思いもないので、いいだろうと思ったのだ。
 実際に住宅地という場所からなのか、道もそこまで広いわけでもなく、路肩に歩道があるわけでもない。ただ、その場所は知っている人は知っているというところで、目立つこともなく、人から言われなければ分からないという、実は全国的にも数か所しかない貴重な場所であった。
 三郎少年も知らなかったが、その話は先生から聞いて知っていて、その話を訊いてから帰る時、実際に見てみると、間違いないことで、
「本当だ。先生の言った通りだ」
 ということで、思わず感動した場所でもあった。
作品名:ファイブオクロック 作家名:森本晃次