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ファイブオクロック

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「魔物が出る時というのは、それぞれに共通性があるようなんだ。ここでは夕方のいわゆる逢魔が時が多いと言われているけど、場所によっては違っていることもあるので、やっぱり調査は必要なんだろうけど、魔物が出る時間、そこに共通性があるということなんじゃないかって思うだよ」
 と先生は言っていた。
 だから、この坂に現れる髭を生やした人の正体が何なのか疑問ではあるが、次第に皆の中でタブーとして忘れ去られようとしていたのも事実だったであろう。
 だが、そうはさせなかったのは、意外なところでこの話が急転直下に一つの形を表したことに至るのであった。
 それは、年も押し詰まった時期の木枯らしが吹きすさぶような寒波が訪れた、年の瀬の時期であった。
 その年は十二月に入ることまでは例年よりも寒さを感じさせないほどの暖かな年で、
「今年は暖冬だ」
 と言われていただけに、いきなり訪れた寒波に、日本中が凍えている時期であった。
 年末というと、クリスマスソングにイルミネーションが賑やかではあるが、この街にいるだけであれば、それほどクリスマスへの印象は深くない。
 テレビのコマーシャルで、ケーキやチキンの予約などを宣伝はしていても、そこまで例年ほどの印象がないのは、やはり季節外れの暖かさが影響していたのだろう。
 家族と関係の薄い三郎であったが、クリスマスだけは、他の家庭のように、ケーキが用意されたり、チキンが食卓を飾ったりしていて、プレゼントも朝目が覚めると置いてあった。
――どうしてクリスマスだけなんだろう?
 と思ったが、その理由は子供の三郎には分からなかった。
 ただ、正月になると、完全に家は引きこもってしまう。友達の家に行こうとしても、
「正月くらいは家にいなさい」
 と言われる。
 初詣も出かけたことはない。クリスマスにあれだけ他と同じようなイベントをするのに、正月はまったく何もしない。それは正月くらいはゆっくりするという両親の勝手な思い込みのようだった。考えてみれば、クリスマスがおかしいだけで、他のイベントというイベントには何もしない家庭ではないか。
 年賀状も親には一束くらいは来ていたが、それが多いのか少ないのかもよく分からない。父親は、面倒くさそうに年賀状の返事を書いていたが、本当にその態度は面倒臭そう。そんな親の姿を見るのは、これほど嫌なことはなかった。きっと親の考え方としては、
「正月ほど面倒臭いものはない」
 と思っているのかも知れない。
 今年の年末も同じようにクリスマスまでは感情が右肩上がりになるが、クリスマスを過ぎると、一気に急降下するだろうということは分かっていた。
 奇しくもクリスマスが終わってから冬休みに入るというのに、自分だけがテンションダダ下がりになってしまうのは、おかしな気がしていた。
 そんなクリスマスを目の前に控えた十二月中旬に差し掛かった時期。襲ってきた寒波は全国的に猛威を振るっていた。木枯らしというには強い風に自転車はひっくり返っていて、歩いていて耳が痛くなるほどの寒波は、昨年の冬にもなかなかなかったものだったような気がした。
 そのせいか、公園に来る人も少なくなってきた。空も薄暗くなっていて、
「いつ、雪が降ってきてもおかしくないな」
 という感覚になっていたが、雪は降ってはこなかった。
 その分、暗くなった空のせいか、風の強さを煽っているようで、風を避けようとする素振りが余計に寒さを誘うようで、皆背筋を丸めたように歩いている。猫背になっているせいで、視線は自然と下を向いてしまい、薄暗い中ではあるが、中には自分の影を意識している人も多いに違いないと思わせるくらいだった。
 コートのポケットに手を突っ込んで、背筋を丸めて歩いている姿は、毎年見る光景だが、何となく寂しさを感じさせる。
 そのために、夕方の西日が差し込んでくる時間はないと思われがちだが、そんな日であるほど、夕方の一瞬だけ、雲が晴れて、光が差してくる時間があることを知っている人はいないに違いない。
 しかし、そんな時間を見ることになる三郎少年は、
「あの夕方にしか出てこない人がいるから、夕日が差し込む時間が一瞬だとはいえ、できるんではないだろうか?」
 と感じた。
 その時初めて、それまで興味はあったが、あまり接触したい相手だとは思わなかったその人に、違う意味での興味が生じた。
――この人の正体ってどんな感じなんだろう?
 と感じさせる。
――この人を意識しない人はいないとは思うが、その正体を知りたいと思う人は実際にはいないだろう――
 と思わせた。
 だが、その正体を知ろうとするのは、前述のようにタブーとされていた。知りたいと思う人が多いことで、タブーとしていたのかも知れないが、人々の間では、
「アンタッチャブル」
 という言葉とともに、無視するわけにはいかないが、必要以上に意識をしないようにしようとも思っていたのであろう。
 しかしここに一人冒険心の強い少年がいることを誰が意識していただろう。大人ですらアンタッチャブルになっているのだから、子供には余計に意識していないと思うのは、大人の勝手な解釈であるに違いない。
 三郎少年は、最初、その人が五時ちょうどに現れるということを知らなかったので、その人が現れるのを、
「夕日が沈むタイミング」
 として意識しなければいけないというのを考慮しなければいけなかった。
 夕日が沈んでしまうと間に合わないと思っていたので、寒風吹きすさぶ中で待ち続けなければいけないのは、実に辛いことだった。
 その日は、偶然というわけではなく、その人を見つけることができた。ちょうど光が雲の合間から差し込んでくるのだが、その人に後光が差して見えるとは聞いたことはあったが、
「本当に、後光が差しているようだ」
 と感じた。
 雲の合間から差し込む日差しは、幾線にも境目を持った光となって見えることが、
「これこそ、後光ではないか」
 と思わせた。
 そもそも、後光というと、お釈迦様にしかないものだという偏見のような思いがあったのだが、それが本当のことなのかどうか、よく分からなかった。
 お釈迦様というと、思い出すのは、西遊記の話であった。
 テレビドラマにも何度もなっているので、あまりにも有名な話ではあるが、その中で印象に残っている話として、孫悟空の驕りを戒めるという意味で、お釈迦様が、御供に言った、
「お前の力がどれほどのものか、見せてみよ」
 という言葉に対して。
「じゃあ、世界の果てまで行ってくる」
 と言って、雲に乗って猛スピードで、一直線に飛んでいく。そうすると、そこに雲の上に浮かぶように垂直の柱が数本立っているのだが、その柱を孫悟空は、
「世界の果て」
 だということで、そこに自分の名前を書いたのだ。
 その足で、また雲の上の同じ道を通って、お釈迦様のところに戻ってくるのだが、孫悟空はいう。
「俺は今、世界の果てまで行ってきた」
「それでは証拠があるのか?」
 と訊かれて、
「そこに柱が五本立っていたので、そのうちの一本に、自分の名前を書いてきた」
 というと、お釈迦様は一瞬考えたようになったが、次の瞬間、ニタリと笑うと、
作品名:ファイブオクロック 作家名:森本晃次