短編集116(過去作品
――精一杯、気に入られたいと思っているのね。可愛いところがあるわ――
と次第に相手を信用していった。
そのうちに、
「じゃあ、今度は私が払いましょうね」
というと、
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな?」
今度は一転、甘えてきたのである。母性本能をくすぐられていた皐月にとって、彼の言葉はヒットだった。
「任せてね」
それからは、皐月が財布を開けることが自然な行動になっていた。
皐月も、好きになりかけている男性のために自分のお金を使っていると思えば、まったくもったいないとは思わない。むしろ、このためにお金を溜めていたのだと思えば、何ともないことだった。
男は結構高級店を知っていた。
「本で調べたんだけど、ここの店は結構いいらしいですよ」
と言って案内してくれる。実際に中に入ると皐月好みの地味なインテリアに、高級感を感じさせてくれる。そこがありがたかった。
デートを重ねること、何度目だっただろうか。三回目か四回目、初めて出会って一ヶ月目くらいの頃だっただろう。
――そろそろかも知れないわ――
皐月も覚悟を決めていた。
――最初の自分を捧げるのはこの男性――
という気持ちはあったが、それがいつになるかというのは、分からないだけに気持ちの高ぶりは次第に増していった。そろそろ気持ちもピークだと思った時だっただろうか、彼がネオンサインも眩しいホテル街へと皐月を引っ張っていった。
半ば強引である。こういうことは躊躇っていては恥ずかしさが生まれてきて、なかなか気持ちの整理も付けにくいものだろう。相手から強引にされる方が、余計なことを考えずともいいと思っていた。
そういう意味でも彼は巧みだった。皐月に余計なことを考えさせることもなく、スムーズに、そして静寂のうちにことを運ぶ。それも皐月にとって、願ったり叶ったりであった。
ゲートを潜って中に入ると、部屋の写真のついたパネルが光っている。ほとんどが消えていたが、ついているのは三つくらいだった。
人気があるのか、それともまだ時間的にこれからなのか分からなかったが、彼は手馴れているように思えて、頼もしかった。相手を頼もしいと思わないと、初めての自分が不安になるだけである。皐月には、その思いが強かった。
そのうちの一つのボタンを押すと、点滅を始める。
エレベーターへの方角ランプがついて、その通りに進む。エレベーターは一階で待っていた。
部屋は五階、扉が開いて、五階を押すとそのまま閉まる。
エレベーターの中はまるで宇宙空間のように無数の星が光っていて幻想的だった。
扉が閉まった瞬間に、彼が抱き寄せてくる。そのまま顎を抱えて唇を塞がれた。
知り合ってから一ヶ月の間に唇を重ねたことはあった。初めて彼のことを、「彼氏」と意識したのは、唇を重ねた時だった。
エレベーターが五階につくまで、何と長かったことだろう。
――唇を塞がれると、どうして目を閉じてしまうのだろう――
夢見心地の中で、そんなことを考えていたが、確かにそうである。テレビドラマの影響には違いないが、恥ずかしい気持ちが強いからだと思っていた。
だが、実際に唇を重ねてみると違った感情が湧いてくる。
――その瞬間、相手を感じることに集中したいからなんだわ――
と思うようになっていった。それが一番の本音なのだ。相手をずっと感じていたいと思うことは、相手に集中することに繋がるのだ。
ただ唇を重ねているだけではなく、相手の舌が入ってくると、自分の中で受け入れたい気持ちが強くなり、抱擁という本能が働くのだろう。それが時間を感じさせない甘い思いを与えてくれるに違いない。
エレベーターが開く頃には、身体から余計な力が抜けていて、立っているのがやっとであった。
――相手に身を任せている感覚がこれほどの快感だったなんて――
初めてであることの恐怖感が次第に麻痺していった。
彼に抱かれるように部屋に入ると、
「思ったよりも明るいのね」
明るいというべきか、悩ましい色使いというべきか、部屋の中が全体的に暗いものだと思っていた皐月には意外だった。
彼は黙ってもう一度抱きしめる。そして唇を塞いだ。先ほどの続きであった。
だが、先ほどとは明らかに違う。彼の手は皐月の背中に回っていて、背中から腰、腰からお尻、そして、太ももへと降りていく。
愛撫と言われるものなのだろう。彼の指使いは端的に皐月の感じる場所を捉えている。
「ああ……。正弘さん」
彼の名前は、大坪正弘。今までは、
「大坪さん」
としか呼んでいなかったのに、この時出てきた名前は自然に下の名前だった。蕩けそうな雰囲気に酔っている証拠である。
正弘の呼吸も次第に荒くなっていた。
「この人も興奮しているんだわ」
と感じ、嬉しくなったが、これも彼の巧みさの一つであった。興奮が次第に高まってくると、暖房が次第に暑くなってくる。だが、そんなことはもう関係もないほど、身体が火照ってくる。
こんな時は最初にシャワーを浴びるものなのだろう。
「シャワーを」
と言いかけたが、その言葉も彼の口が塞いだ。戸惑っていると彼の舌が入ってきて、後は蕩けるような思いに身を任せるだけだった。
――この人、巧みだわ――
初めての経験なのに、妙に冷静な自分が一瞬おかしくなった。こみ上げてくる笑いを抑えると、その後から笑いが起こることはなかった。
「服の上からでも、あなたの身体を感じますよ」
唇を離した大坪が放った最初の言葉だった。
小柄で少しポッチャリしていることもあってか、胸の膨らみには自信があった。自分では幼児体型だと思ってそれがコンプレックスになっていたこともあって、今まで男性経験がなかったのだと思っていたが、
「幼児体型を好きな男性もいるのよ」
という話を聞いたこともあるので、やはり処女というものに固執し、頑なに守ろうと思っている気持ちが表に出ていたのが最大の理由だったに違いない。
「恥ずかしいわ」
相手の口から自分の身体で感じると言われるのは嬉しい反面、恥ずかしくもあった。
本当は肉体的なものよりも女性としてや人間としての魅力で好きになってほしいと思っているのに、
「感じる」
というのは、相手を素直に直接思うことで、それはやはり本能のような直感が優先するのだろう。それが相手の身体を求めることになるのであれば、恥ずかしいと口では言いながら、嬉しさの方が強かった。
「恥ずかしがることはないさ。君は十分に魅力的さ」
「そんなこと言われたことないもの」
「他の人が気付かないだけさ。もっとも、気付かないなら、そのまま気付いてくれない方がずっと君は僕のものだからね」
まるで宙に浮きそうなセリフである。男性がそんな言葉を発するなんて、ましてや普段の彼が発する言葉とは程遠いものを感じた。普段の彼は、それほど歯が浮くようなセリフを吐くタイプではなかった。
二人きりで愛し合うというシチュエーションが、そんな気分にさせたのだろう。これも彼の一面なのだ。
――ということは、今の私も彼には普段と違う女性に見えているのかしら――
と思うと、またしても恥ずかしさから、自然に顔が火照ってくるのを感じた。
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次