短編集116(過去作品
木造家屋も風が入ってくると涼しくて気持ちよかったが、納屋もそうなのだろうか。あまり頑丈な造りにはなっていないように見えるが、風通しはよさそうだ。
納屋の足元は土になっていて、あまり整備されていないのか、結構デコボコしていた。しかも納屋にはトラクターが格納されていて、しょっちゅう出入りしているので、タイヤの跡がくっきりと残っている。結構硬そうな土の質なのだろう。タイヤの跡がそう簡単に残るとは思えなかった。
納屋の天井は高く、その途中が中二階のようになっていて、下の階には、藁が積まれていて、いかにも農家を感じさせた。
「上には農具などが置いてあるんだぜ」
「そうなんだ。僕はあまり農具を見たことがないからな」
松本は友達の後ろから黙って歩き、そのまま階段に近づいていった。
階段の横の壁を見ると、少し黒くなっている。木造の中でも、階段の横の壁は、何かべとべとした感覚があり、漏れてくる日差しに光って見えた。
「これは?」
「ああ、これは虫除けになるものを塗っているんだ。何となく匂いがするだろう? この匂いが虫を近づけないらしい。もっとも、当然のことながら、人間には無害なんだけどな」
指で掬ってみて、匂いを嗅いでみた。さすがに鼻に近づけると強烈な匂いがする。これなら虫もひとたまりもないだろう。
匂いを嗅ぐと少し気分が悪くなったのも事実だが、急に日本家屋の住宅に懐かしさを感じるようになった。
――初めてきたはずなんだけどな――
この感覚は今までにもあった気がした。
初めてではないという感覚と、実際に懐かしいと感じる目の前に広がっている木造家屋である。
最初に、あれだけ広く感じていたのに、匂いを嗅いでから次第に、狭くなってくるのを感じる。天井も低く感じるし、階段も小さく感じる。だが、階段を小さく感じたことが、自分にとって運命的なことだったことに、その時は感じなかった。
「何となく、石の匂いがしないか?」
「石の匂い?」
「ああ、石の匂いというか、雨が降る前に普段と違う土のような石のような匂いを感じることがあるんだが、君にはないかい?」
「そういえば感じたことがあったね。湿気を吸っているというのは分かってたけど」
そういう話をしながら、奥にある階段を目指した。
階段は、非常に急で、
「これが昔の造りなのかな?」
「そのようだよ」
「でも、昔の人って、今の人よりも身体も小さく、足も短かったって聞いたけど、よくこんな急な階段を昇れるよね」
もう少しで一番上まで上りきれると思ったその瞬間、またしても、石に匂いを感じた。
――何か悪い予感がする――
恐怖に身体を硬くした瞬間、背中に圧迫感を感じ、さらに痛みを感じたが、すぐに感覚がなくなった。
「息が、息が……」
と口走るが声になっていない。
「うわっ。おい、大丈夫か」
友達の大きな声がしたと思ったら、まわりから人が来るのを感じた。
――騒がないでくれ――
どうやら、自分が階段から落ちたことは分かっていたが、苦しさの中から感じたことは、まわりに騒がれたくないという思いだった。
叫んだつもりでも声になっていない。手を挙げて何かをつかもうとするが、虚空を握っている。
人の声がだんだん遠くに聞こえてきて、そのまま気を失ってしまったようだ。
「大丈夫?」
気がついた時にはベッドの上だった。母親が覗き込んでいる。
「どうしたんだろう?」
「連絡もらって、母さんビックリして飛んできたんだよ。でも、大事に至らなくてよかったわ」
「ああ、階段から落っこちたんだ」
「脳しんとうを起こして気絶しただけみたいだったわ。でも、血が結構出ていたので、皆さん心配なされたみたいで」
「血が出たんだ」
そういえば、血の匂いを感じたように思えた。血の匂いなど今まで感じたことなどなかったので、どんな匂いかと言われると分からなかったはずなのに、ベッドの上で思い出すと、
「鉄分を含んだような匂いだった」
とはっきり言うことができる。
それからだった。石の匂いを感じると、何か怪我の前触れだと感じるようになったのと、木造住宅を見ると、血の匂いを思い出すようになっていた。
喫茶店の窓から表を見ていると、さすがに日差しを避けるように日傘を差している人をたくさん見かける。中は冷房が効いていて、さっきまでは表の暑さが恨めしく、身体にへばりつくような湿気を疎ましく思っていたのがウソのようだ。
落ち着いてコーヒーを一口口に含むと、今までの恐怖を思い出していた自分が信じられない。
二年ぶりの天満宮だということもまるで信じられず、それでいて、初めて入ったはずの喫茶店なのに、初めてではない気がしたのは、ジャズの音楽に聴き覚えがあったからだろう。
喫茶店の窓から表を見ていると、見覚えのある女性が、喫茶店の扉を開けて入ってくる。彼女は以前付き合っていた女性で、名前を明美と言った。明美とは最初に出会った時、まさか付き合い始めるようになるとは思っていなかったほど、意識していなかった。入った店には客は誰もおらず、明美も誰もいないと思って入ってきたようだ。松本が席に座っているのを見て、バツの悪そうな顔をしていた。
その時のことを思い出した。考えてみれば、自分の人生は恐怖という走馬灯をいつも意識しながら生きてきたようだ。恐怖に限らず、人生はどこかで繋がっていて、必ず元の場所に戻ってくると思っている。
明美とは付き合い始めてからずっと仲がよかったのに、松本の一つのわがままから歯車が狂ってしまった。
別れる時は売り言葉に買い言葉、最後は、
「顔も見たくない」
という状態になってしまった。
ずっと後悔してきた。
「こんな別れ方をするなら出会わなければよかった」
とすら感じたものだ。
明美は松本に気付いて店の中に入ってきた。顔が以前から比べて少しふっくらしたようで落ち着いて見えた。
「こんにちは。久しぶりね」
意外だった。最初の一言が明美の方からだったからだ。いつも主導権は松本が持っていて、別れる時だけ、自分の気持ちを主張した明美だった。
元々自分のわがままだと思っていたから、それも仕方のないことだった。自分がもう少ししっかりしていれば、明美にあんな態度を取らせることもなく、一番見たくない顔を見ることもなかったからだ。それからの松本は女性にトラウマを感じ、恐怖に似た意識を抱くようになっていた。
「やあ、久しぶり。でも、まさか君から話し掛けてくれるなんて思ってもみなかったよ。二年前のあの時、ここで君が俺を見つけてくれていたら、少しは違ったんじゃないかと思ってね」
二年前、ここで会っていればおかしな誤解をもたれることもなかった。しかも言い訳をしたくないという理由で、誤解を解こうとしなかったことが彼女の逆鱗に触れた。
「そうだったの。でも終わったことよね」
「でも、終わりがあれば始まりもあるよ」
「あなたは、あの時の私を許してくれるの?」
「許すも許さないも、誤解がお互いの歯車を狂わせたわけさ」
「私はずっとこのことが引っかかって、誰ともお付き合いをしていなかったわ。あなたはどうなの?」
「俺もそうだね。お互いに自分に非があると思っていたんだ。その誤解を解くのに二年掛かった」
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次