短編集116(過去作品
気になる女性がいれば、少しでも近づきたいと思うのが普通だが、場所が満員電車という環境では、少しくらい離れている方がいい。あまりそばにいると顔が見えなくなってしまうからで、普段は適度な距離を保っていた。
電車を待っている時、清楚な雰囲気で、女性が一人で佇んでいる場合に感じる、
「何を考えているんだろう」
といろいろ想像してみたくなるような雰囲気に、彼女の場合はドキッとさせられる。
そばに寄ったときにつけていた香水、柑橘系の香りだったが、細身の彼女には柑橘系がよく似合っていた。
夏場だったので、まわりの汗の匂いが激しく、せっかくの柑橘系の香りも入り混じった匂いの中ではあまりいい香りに感じなかったのは残念だ。
その日は、ずっと彼女ばかりを見ていた。いつもは、
「気付かれたらどうしよう」
と思いながら、時々チラチラ見る程度だったのだが、その日は、
「気付かれたってかまうもんか」
と言わんばかりにじっと彼女を見つめていた。
いつもだったら、視線を浴びせても気付かないフリをしていたであろう。彼女にはそんな恥じらいを感じさせるところが清楚な雰囲気を醸し出しているのだ。
その日はいつになく押し込みが激しかった。押されるままに中へと入っていって、扉の近くにとどまることを許してはくれない。どうやら少し電車が遅れていたようで、いつもなら次の電車を待っているはずの人たちが、我先にと押し込みの中に入り込んでくる。
中からは悲鳴が聞こえるが、押し込んでくる人は容赦がない。遠慮していると、遅れている電車に、さらに次の電車を待っている人が乗り込んでくるからだ。ギュウギュウ詰めの状態で、中の方に押し込まれていく。
もう限界というところまで人が乗り込んで電車は揺れを伴い発車した。揺れにあわせて人が動くと、今までできるはずがないと思っていたスペースが生まれてきた。停車している時であればまわりの外圧がないため誰もが押し返す力を持っているが、発射してからの揺れには誰も逆らうことができない。自然とそれまで突っ張ってきた反動が、中で緩んでいったのだ。
彼女との距離は適度にあった。荻沼と彼女の間には三人ほどの人がいるだけで、移動しようと思えば移動できる距離である。だが、荻沼は移動しようとは思わなかった。これが自分と彼女のベストな距離であることが分かっているからである。
彼女のまわりには男ばかり、荻沼のまわりには、女性もいれば男もいる。彼女も背は高い方で、男性の顔に埋もれることはない。
普通、満員電車の中などでは、女性は顔を下げていることが多いように感じていたが、彼女は顔を上げてどこかを見ていることが多い。それなのに、今までに一度も目が遭ったことがないのは、彼女が荻沼をまったく意識していないからだと思っていた。
だが、その日は少し違っていた。電車に乗ってからすぐに彼女の顔が赤く染まり始めたのを感じたからだ。
見る見るうちに紅潮していくが、最初に紅潮を感じたのは耳からだったのは、顔全体を見ていたつもりで気にしていたのは耳だった証拠である。首筋から耳にかけてが彼女の魅力のように思っていたからで、もう一つは、万が一にも目が合ってしまった時が恥ずかしいという思いから、視線がまったくこちらにないことを確認してからでないと、いつも視線を彼女の顔全体に向けることがなかったからだ。
その日は紅潮した顔を見てしまったこともあって、最初から表情を観察していた。耳が気になったのも、全体を見ていて、その中で気になったのが耳だったということは、普段からの習慣というのは恐ろしいものである。
電車が揺れるたびに、彼女の顔が歪んでいる。モゾモゾと動きながら後ろを気にしているようだ。
――痴漢――
一瞬にして気付いた。
助けてあげなければなあないと思いながら、身体が動かない。動かそうとすると、まわりにいる女性が身体をずらして動けないようにしているように思えてならなかった。まったく縁もゆかりもない彼女たちが、荻沼と彼女に対して取っている行動だとはどうしても思えない。ただ偶然に違いない。
だが、荻沼はそうは思えなかった。
――俺と彼女の間は近くて遠いんだ――
しかし、最初にこの距離を選んだのは荻沼自身である。近づくことが怖かったわけではなく、適度な距離から見ている彼女が綺麗に感じられたからだ。
助けなければいけないと思いながら、それもままならず見ていると、彼女は一瞬、顔を下に向けた。荻沼はこの時とばかりに熱い視線を彼女に浴びせる。言葉にならない言葉を発しながら、心の中で、
「今助けてあげるよ」
といわんばかりであった。
形相は、かなりすごかったに違いない。自分でも目をカッと見開いているのを感じることができたくらいだからである。まわりの女性たちの荻沼への蹂躙は弱まった。この期に彼女に近づけば助けてあげられるに違いない。
だが、次の瞬間、彼女が顔をスッくと上げた。その速さといったら、今までの行動がスローモーションであるがごとくであった。その視線の先には荻沼がいる。まるでヘビに睨まれたカエルのように身体が硬直してしまって動くことができなかった。
――助けてあげるなんておこがましい――
そんな感覚に陥った。彼女の表情は怒っているように見えたからだ。
だが、それも一瞬で、顎を突き出して、少し苦痛な表情にも見える。
――この表情、どこかで見たような気がする――
思い出せないが、見たことがあると感じた瞬間、彼女が決して嫌がっているわけではないことに気がついた。
――あれは恍惚の表情なんだ――
女性と経験がないわけではない荻沼だったが、恍惚の表情を女性が浮かべる時というのは、自分も高ぶっている時である。お互いに身体を重ね、気持ちを確かめ合いながらの儀式の中で、求め合いながら感じあっているものである。
彼女の顔は明らかに身体が反応している。自分でそのことを意識しているはずなのに、今まで感じていた彼女の中にある恥じらいがその瞬間、消えてしまっていた。
口元が動いた気がした。
「た・す・け・て」
口は確かにそう動いたように思えるが、彼女の目は違っている。
「もっと見て」
と言っているように見える。荻沼は自分の頭が混乱しているのを感じている。口の動きを信じればいいのか、視線を信じればいいのか混乱していた。
考えてみれば、ここで彼女を助けようと動けば、恥ずかしい思いをするのは彼女かも知れないとも思う。こんなに頭が混乱している中でも、そのことに気付いたのは、案外冷静だったのかも知れない。
しばらくどうしていいか分からずに彼女を見ていると、こちらへ向けた視線に余裕が出てくるのを感じた。まるで、
「こっちを見て」
と言わんばかりである。
贔屓目に見ていると、清楚にしか見えないが、表情を見ていると、思い出すのが昨日の電話の声だった。
今の光景を見ていて、
――前にも同じシチュエーションを味わったことがある――
と感じていたが、昨日、
――どこかで聞いたことのある声だ――
と思ったことに酷似している。やはり彼女は荻沼に見てほしいという表情をしているのだと思うと、それ以外が頭に浮かんでこない。
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次