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短編集116(過去作品

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 声が漏れている。口が半開きになって淫靡な表情を浮かべている彼女のそばに近づきたい気持ちの裏腹、遠くから見ていることの美しさが漂ってくる。
 綺麗なものは遠くから眺めているのが一番で、近づくと見たくないものまで見えてくる。きっと今の彼女にはこれ以上近づいてしまうと、見たくないものを見てしまうという感覚が付きまとっている。
 声でもそうなのだ。昨日の電話の声も、映像が目の前で展開されていれば、ここまで印象に残ることはなかっただろう。想像が妄想に変わり、自分の中で勝手に膨れ上がってしまうことが快感に繋がっていくのだ。
 今だって、ハッキリと声が聞こえないから、彼女の声を想像して、しかも昨日の電話の声が耳にこびり付いてしまっていることで、さらに興奮を煽るのだった。
 電車の小刻みな振動は、今までは苦痛でしかなかったが、その日はまるで子守唄のようにさえ感じ、身体が宙に浮く感覚が残った。
 時間が経っているのに、まだ降りる駅に着かない。ずっと加速が続いているように思えた時間帯は長かったのだろうか。
 気がつくと電車が減速を始めた。まるで夢から覚めたかのように、まわりの人間の圧力を感じると、ざわついた普段の通勤電車に戻っていた。
 子守唄が聞こえそうだった時間帯は、まわりのざわつきを感じることはなかったが、電車のレールの音だけは響いていた。小気味よいレールの音は、子供の頃から好きだったものだ。
 電車に乗って一番好きだったのは、駅のホームからの滑り出しと、ホームへ入り込んでくる瞬間だった。敷石や隣のレールばかりを見ていると、易のホームに滑り込んでくると、ものすごく近くに地面があるように思える。手を出せば届きそうな距離は子供心の単純な疑問を抱かせ、好奇心をくすぐった。
 普通に走行している時のレールとの軋む音が、ホームに入り込んできてからは、ほとんど聞こえなくなる。それも子供心の好奇心をくすぐった。
 扉が開いてホームに投げ出されると、そんな感覚は失せてしまう。だが、満員電車の中でもホームに入り込んでくる瞬間だけは、子供の頃に戻ったようで、新鮮な感じを受けるのだった。
 電車を降りると、彼女の姿は、まだ電車の中だった。彼女がどこまで行くのか分からないが、この数十分が長く感じるか短く感じるかで、その日一日の感じる長さが決まると言っても過言ではない。
 その日一日、思ったよりあっという間だった。
 仕事が定時に終わり、どこにも寄ることなく、真面目に帰宅してからの時間は、きっと長く感じられるに違いない。
 帰り着いたのは午後八時、帰り着いたら本でも読もうと以前から買ってあった文庫本を取り出して、風呂上りに一杯のビールを呑んでから、布団の中で本を開いた。
 いつもより字が小さく感じられたのは、きっと睡魔が襲ってくるのを予感していたからかも知れない。実際に睡魔が襲ってきたのは、本を開いて五分後だった。
 以前から本を読むと眠くなることから、神経が高ぶって眠れない時のために文庫本は用意していた。その日も数日前に読んだところの続きから読もうと思って開いたのだが、半分以上ストーリーを忘れている。
 少しさかのぼって内容を思い出そうとしたが、これはあまり好きな作業ではない。最後まで読んで、再度頭から読み直す分には問題ないだが、途中まで読んでいて、前に戻るのは、先を知らないことから湧いてくる好奇心に水を差すことと、何よりも後ろ向きの作業になることへの違和感があるからに他ならない。
「不思議だな。以前に読んだはずの内容なのに、内容を思い出すことはできても、読んだという記憶が飛んでしまっているんだよな」
 と感じた。あれほど、
「前にどこかで」
 と感じることが多かった日なのにおかしなことだ。そう思っているうちに、本当に眠くなってきた。
 その日、眠りに就いたのは早かった。一日があっという間だったわりには、部屋に帰ってからの時間が無性に長く感じられる。そんな日は早く寝るに限るのだ。
「きっといい夢が見られそうだ」
 眠たい時に寝るのが一番気持ちのいい睡眠で、そんな時に限っていい夢を見れたりする。目が覚めてからも覚えているようないい夢だったりすることが多いのだ。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。電話の音が鳴っている。次第に大きくなってくるのを感じると、自然に受話器を取っている。
 向こうからは話し掛けてくる様子はない。今までなら、いたずら電話だということで、
「どこに掛けてるんだ」
 と罵声を浴びせて、相手の反応をみることもなく切ってしまうのだろうが、受話器に耳を押し付けてしまった。すると、向こうからは息切れのような声が聞こえる。
 すぐに女性が掛けてきたのだと分かった。昨日の女性ではないかという思いが次第に強くなると、途切れ途切れで漏れてくる声が艶かしく感じられた。
 しばらく聞いていると、身体が宙に浮く感覚があり、朝の満員電車を思わせた。電車の中で、こちらを見つめていた女性の顔が浮かんできて、
「俺を求めているのかな?」
 あの時にそばに寄っていかなかったことを後悔し始めた。
 だが、次の瞬間、怖くなってしまった。電車の中の世界も、自分の部屋で深夜に受けたこの電話も、まったく架空の世界で繰り広げられているように感じた。
「パラレル・ワールド」という言葉を聞いたことがあるが、ある世界から分岐して、同じ次元の世界が存在しているという発想である。
 人間にも「パラレル・ワールド」のようなものがいくつもあるかも知れない。
「もし、あの時にあれをしていれば」
 などと考えることもたくさんあるだろう。
 この電話の声も、その「パラレル・ワールド」から掛かっているのかも知れないと考えていた。
 そもそも夢の世界も自分が考えるある時点から分岐したもう一人の自分を見ているのかも知れない。そんなことを考えていると、電話の声の女性と電車の中での女性が同一人物に思えてならない。
 それは家にいる時の自分、そして通勤時間の自分が別の世界の人間に変わっていても気付いていないのではないかと考えるからである。
 電車に乗っていて触られている彼女に誘われている目を見て、興奮を忘れられないはずなのに、彼女が夢の中に出てくると、
「夢では何でもできる」
 と思っているのに、触ることすらできないだろう。
 その日は覚めも呑まずに帰ってきた。夢を見た記憶もあるが思い出せない。酒を飲むことで、もう一人の自分の存在を自分の中で自覚しているのかも知れない。
 荻沼は、電車の中の女性を好きになっていたと思っていたが、実際は電話の声に恋してしまったのかも知れない。電車の中での彼女の声を聞いたことがない。たぶん、電話の女の声だろう。だが聞いてしまえば気持ちが萎えてしまうように思う。逆に電話の女も声だけで顔を見てしまえば、同じように気持ちが萎えるだろう。
 何でも手に入ってしまうことへの物足りなさを感じる。それはもう一人の自分の存在を知ってしまったからではないだろうか。お互いにないものを補っている。補って完璧なものになることを嫌っているから、同じ世界で共存できないのだ。
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次