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短編集116(過去作品

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 社会人になると、今度はいろいろなことを勉強するようになるが、それは学生時代に感じていた漠然とした社会というものとは少し違っていた。
 どこか人間くさいところが社会にはあり、学生時代に考えていた厳しさとは少し隔たりがあった。
 厳しさの中に暖かさのようなものもあるべきだと思っていたが、暖かさというよりは人間くささという理屈では解決できないものだった。
 学生時代に勉強してきたことは、ある程度答えがあり、それに向かって前進することを覚えてきたつもりだが、理屈が通用しない世界では、融通が利かない性格だと、馴染むのが難しい。
 それでも慣れというのは怖いもので、自然に接しているうちに、人間くささにも馴染んでくる。
 それも、社会人になりたての頃に感じていた矛盾やストレスを自然に感じなくなってきて、気がつけば社会の一員となっているのだ。
「三日もてば三ヶ月、三ヶ月もてば三年はがんばれるさ」
 と社会人になりたての頃に上司に言われた。
 その言葉を思い出したのは、社会人になって三年目というのも皮肉なもので、その頃には、しっかり社会に慣れていた。
 きっと自分に合った仕事だったことも功を奏したからに違いない。
 事務職で、デスクワークをコツコツこなす仕事である。こなせばこなすほど、業務がスムーズに遂行される。営業のように数字となってハッキリとは現れないが、自分を曲げることもなく、自らの道を進んだ結果がハッキリと現れる仕事は自分にとっての天職だとも思ったほどだ。
 仕事をがんばっていると、他のことも何とかなるものだ。彼女と別れて辛い思いをしている中でも、会社で仕事をしている時だけは、今までと変わらない。家でくつろいでいても、一人でいると、どうしても余計なことを考えてしまうことで、結局落ち着いた気分になれない。会社の帰りに酒を呑むのも一人になりたくない時であって、仕事が終わった満足感を、そのまま持続させたいという気持ちが強いからだ。
 その日の夢は、掛かってきた電話で完全に中断されたようだ。ただ、電話が掛かってくるような気がしたのも事実で、
「電話は夢の続きなんだ」
 と思ったほどだ。
 いくら深夜とはいえ、誰とも知れない人に電話を掛けて、いやらしくなっている自分の気持ちを伝えるなど、荻沼には想像できないことだった。だが、電話の声を聞いた瞬間、
――どこかで聞いたような声だ――
 と感じ、前から知り合いだったように思えてきたのだった。
 一声といえども聞き逃したくないと思ったのも、相手が誰であるかしっかりと見極めたいという気持ちがあったからだろう。後ろから聞こえてくるかすかな音も逃したくなかったから、耳が痛くなるほど受話器を押し付けたのだ。
 目を瞑って聞いていると、耳元で囁かれているように思う。今までにその人の声で、囁かれたことがあったかのように思えてならなかった。それもそれほど昔ではない。
 夢で聞いたのだろうか? 夢だといつのことだったのかという記憶はあまり定かではないからだ。
 卑猥な内容を言われて、夢だと感じるのも、まだまだ純情なのだろうか。実際に世の中には卑猥な会話で感じる人たちがいるらしい。以前は雑誌でしか書かれていなかった内容のものが、文庫本となって駅の売店で売られている。通勤電車の中で読んでいる人も少なくはないだろう。また主婦が快楽に溺れるというような内容などが売れる時代であることは知っていた。少々卑猥な電話が掛かってくるくらい、不思議でも何でもないのかも知れない。
 会社の先輩で、不倫をしている人がいた。家族にバレることなくうまくやっていたようだが、結果的には家族にも会社にもバレてしまい、居場所を失ってしまった。会社は退職することとなり、それからどうなったのか分からないが、考えてみれば恐ろしい。
「誰にだってありえることなんだよな」
 先輩を見ていて、同僚の一人が呟いた。その言葉が今でも荻沼の頭にこびりついている。別に自分が不倫をしているわけでもなく、これから先も、
「不倫などするはずはない」
 と思っているはずなのに、なぜか怯えが走ったのだ。
 これも学生時代に感じた漠然としたものに対する恐怖なのかも知れない。
 だが、学生時代に感じた恐怖とは少し違っている。学生時代に感じた恐怖は、社会人になるのは確実で、ただ社会という確実に目の前に存在しているものが漠然としていることへの恐怖であった。今回の恐怖は、自分としては踏み入れるはずのない世界だと思っているが、どこか気になってしまう世界。
「ひょっとして、心の底で興味を抱いているのかも知れない」
 という恐怖である。
 不倫という言葉を聞くと、
「見るなといわれれば、余計に見たくなる」
 という発想が芽生え、人間の心理の奥底を見てしまうのではないだろうか。
 目が覚めてから完全に起きるまでに思ったより時間が掛かったのは、女の声の余韻を楽しんでいたからだった。
 目が覚めてくるにしたがって、声を忘れていく。これは夢に通じるものがある。覚えていてはいけないものなのかも知れない。もし忘れてしまわなければ、その日は仕事にならないだろう。
 夢も同じで、忘れてしまった夢というのは、覚えていてはいけない夢だったのかも知れない。だが、覚えている夢というのは、印象に残っている夢ばかりである。忘れなければならないというだけに、さらに印象深い夢だとすれば、どれほどの内容なのか想像もつけられない。
「とにかく夢だということにしてしまって、目を覚ましてしまおう」
 完全に目を覚ましてしまわなければ、その日のリズムが完全に狂ってしまう。
 荻沼は自分のペースで生活することを大事にするタイプである。考えていたリズムを狂わされると、修正にかなりの労力を使ってしまう。それだけはいつも避けたいと思っていた。
 会社で起こるトラブルなどでも敏感にリズムを狂わされたと感じる。絶えずトラブル発生は頭の中に入れて仕事をしているはずなのだが、それはあくまでもトラブル解消させるまでのリズムである。
 トラブルが解決し、
「さて自分の仕事に戻るか」
 と思っても、トラブル対応の間にいつの間にか別のところまで足を踏み入れてしまったことが無意識であるため、我に返ってみると、自分の居場所が一瞬分からなくなってしまう現象である。
 夢から覚めたのと同じ感覚になってしまう。後ろを振り向いてもどこにいるのか分からないことがあるくらいで、それが自分のリズムによるものだと気がついたのは大学に入ってからだっただろうか。
 大学に入ってそんな自分に気付いた時、
「小学生からやり直したいな」
 と考えたことがあった。今までで過去の自分をやり直したいと感じたのは、後にも先にもその時だけだった。
 自分のことに気付いた時、自分の居場所がどこなのか、まわりがある程度見えた瞬間なのかも知れない。そんな時、もう一人の自分が違うところに立っているのが見えて、そちらに行くには一旦戻って、分岐点から道を変えなければならない。その道を見つけることはできないが、
「分岐点まで戻れば何とかなる」
 という気持ちになったのである。
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次