短編集116(過去作品
という同僚もいる。トータル的にはマイナス面が多いだろう。だが、それも一つの個性、個性というのは、一つのものから成り立っているわけではない。いろいろな性格が重なり合って、一つの個性を作り上げていると思っている荻沼は、いくらマイナス面が強いとはいえ、今の性格を変える気にはならない。歯車が一つでも狂えば戻すのが難しいと思うのも集中できなくなる要因になってしまうという悪循環に入り込む。
その日、焼き鳥屋に入ったのは、偶然であって、最初から焼き鳥屋へ行こうとは思っていなかった。
あらかじめ考えていた行動を取ることが多い荻沼にとって、衝動的な行動は、意識の中にどこか作為的なものを感じる。無意識ではあるが、ただの偶然だと一言で片付けてしまえないところも荻沼の性格だった。
アベックの姿を横目に見ながら一人でビールを呑んでいた。呑んでいると、どうしても付き合っていた彼女のことを思い出す。一緒に呑みに行くことなどなかった。彼女はあまりお酒が好きではなく、荻沼自身もアルコールは弱い方である。
お酒を呑むのはいつも一人だと考えていた。会社の人と一緒に呑みに行ったこともあったが、それも誘われてついていくだけで、自分から決して誘うことはしない。誘ってくれる友達も以前はいたが、最近になって転勤になったので、今は呑みに行くこと自体、ほとんどなくなってしまっていた。
同僚の転勤は、最初それほど寂しいものではなかった。彼女がいたからである。しかし別れてしまった今となっては、これほど一人の友達がいなくなったことが寂しいことになってしまった。彼女と同じで、いて当たり前という存在だったのだ。
酒を呑んでいると時間を忘れられる。
「酒は時間を食べるんだ」
などという冗談を言っていたやつがいたが、まんざらでもないような気がする。
お酒には楽しい酒と楽しくない酒がある。
楽しい酒を呑みたいとずっと思っていたのだが、なかなか楽しい酒に巡り会うことができずに最近は、もっぱら寂しさを紛らわすための酒が多い。
呑み始めはそれなりに気持ちよくなるのだが、酒のまわりが遅い荻沼は酔いがまわってくるまで呑んでいると後が辛くなる。
家に帰って眠りに就いても、気持ち悪くて目が覚めることもあり、今度はなかなか寝付かれない。
「こんなことなら呑むんじゃなかった」
と何度思ったことだろう。
酒が入った日は、必ずと言っていいほど喉が渇いて目が覚める。枕元に水差しを置いて寝ることが日課になったのもそのせいだった。
おかげで何度もトイレに起きるようになる。トイレに行くのに起きるたび、酔いの覚めてくるのが分かってくるが、寒い時期には寒さが身に沁みてくる。
その日はアルコールをセーブしていた。ほろ酔い気分で帰宅し、眠りに就いた意識もしっかりとしている。夢を見ることも分かっていた。酒に酔って寝る時は決まって夢を見ている。だが、夢の内容は起きるにしたがって完全に忘れてしまっている。
目が覚めて夢の内容を覚えていないことは何度もあったが、少しくらいはおぼろげに覚えているものである。前後関係がハッキリとしないので、繋がらないだけで、それなりに夢を忘れるということはない。
アルコールが入ると、完全に夢の内容は飛んでしまう。夢を見たという事実だけが残っているのもおかしなもので、アルコールが入った時だけであった。
しらふの時、夢を見たという意識がまったくないことを当たり前だと思っていた。荻沼だけに限ったことではないだろう。夢を見るのが稀で、夢を見ない方が普通なのだと思っていたくらいである。
夢を見るのは疲れが溜まっている時が多い。ストレスを感じていると、それが夢になって現れると思っていたからだ。
「夢とは潜在意識が見せるもの」
という言葉を信じているからだ。
だが、最近では夢とは毎日見るもので、見た内容を忘れてしまっているだけではないだろうかと思うようになっていた。
それならば、何となく悲しい気がする。
いくら夢であっても、一度見たものを覚えていないというのは寂しいものである。
ドラマやおとぎ話などで、言ってはならないことを言ってしまったり、見てはならないものを見てしまった瞬間に、自分もまわりもそれまでの記憶がすべて飛んでしまったという内容のものを見たことがある。
自分に関わらないところでは何ら変化はないのだが、自分を知っているはずの人間が誰も知らずに、
「はじめまして」
と声を掛ける。
本人の記憶ももちろん欠落しているので、どんなに親しかったはずの人でも初めて会ったことになってしまうのだ。
それが愛する妻であっても、自分の子供であってもである。それまでのストーリーを知っている人は、それがどんなにハッピーエンドな内容であっても、これほど寂しさを感じることはないのではなかろうか。少なくとも荻沼にとって、夢の内容を覚えていないのではないかと考え始めた時に感じた一抹の寂しさは、その時の思いに酷似しているはずである。
最近の荻沼は、寂しさを感じていた。一日のうちで一番楽しいのはいつだと聞かれれば、「寝る前」
と答えるであろう。では逆に嫌な時間は? と聞かれれば、
「起きた時」
と答える。
夢への造詣の深さを思わせる気持ちの表れであった。
眠った時間は午後十一時、呑んで帰った日は、いつもそれくらいの時間である。
帰り着いたのが十時くらいだったので、軽くシャワーを浴びて、そのまま布団の中に入ると、テレビをつけて、眠くなるまでぼんやりと見ている。いつものことだった。
ちょうどサッカーの試合があったので、時差の関係か、終了が十一時だった。布団の中で体温が眠気を誘う。テレビを消して、電気を消せば自然に眠ってしまうのは分かっていた。
ストレスが溜まっていない時でも、眠る前の瞬間は楽しい気分になれるものだ。起きている時に楽しいことがあるので、寝る瞬間にしか感じることができないが、その日の疲れを心地よく終わらせてくれる布団の中がありがたかった。
ほろ酔い気分で眠りに就くと、眠りが浅いかも知れない。それでも夢を覚えているもので、そんな時に限って、学生時代の夢を見たりするものだ。
あまり悩みもなかったはずなのに、いつも何かに怯えていたように思う。漠然とした大きな悩みを抱えていたのか、それとも社会という未知の世界への怯えのようなものがあったのか、それを忘れるために、いつも友達と一緒にいたような気がした。
時々一人になると無性に寂しい。いろいろなことが頭をよぎり、悪い方にばかり考えてしまう。しかも社会を知らないだけに、考えている悪いことがどれほどの大きさのものか分からないことがさらに怯えを呼ぶ。
「まるでお釈迦様の手の平の上で、踊らされているようだ」
世界の果てを見ようといくら飛んでも、行き着く先はお釈迦様の手の平の上だったという「西遊記」の話を思い起こさせる。
知らないことを気にもせず、自分の世界で大いに虚勢を張っているのもいいことではないが、知らないことに怯え続けるのもいいことではないはずだ。その人の性格であり個性なので、それ以上何も言うことはできないだろうが、荻沼は自分のことを個性だと一言で片付けられないから怯えるのだ。
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次