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短編集116(過去作品

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深夜の電話



                深夜の電話


 その日は蒸し暑い夜で、少し寝苦しかった。夢を見ていたように思えたが、眠りが浅いせいか、目が覚めて時計を見た時間は、自分の感覚とほとんど違わなかった。
 目が覚めたと同時に掛かってきた電話、
「掛かってきたから目が覚めたのかな?」
 と感じたほど同時だったが、いや、やはり目が覚めてから掛かってきた電話だということは、ある程度意識がしっかりしていたから分かることだった。
「もしもし」
 電話に出ると、相手は女だった。こちらから何かを言う前に、第一声が飛んできた。その声はハスキーで、寝ぼけたような声だったが、明らかに恥ずかしがって震えている声にしか聞こえなかった。
「私……」
「はい」
「ものすごくいやらしい気分なんです」
 聞いていると息遣いが荒かった。思わず受話器に耳を押し付け、些細な音でも聞き逃したくないという衝動に駆られた。
 受話器を耳に押し付けても、些細な音を聞き逃さないほどよく聞こえるわけでもないのに、そんな自分がいじらしく感じられるほどだった。
 相手の顔が見えないということは、本当であればイライラしてくることだろう。受話器に耳を押し付けるのだって、相手がどんな状況なのかを必死で探っているからだ。
 部屋の中が急にムシムシしてくる。その時になって、寝苦しかった理由が蒸し暑かったからだと気がついた。しかも、耳元にへばりついてくるような気だるさを感じさせる声、眠気を誘いながら、心地よさへと導いていく。
 そのうちに夢見ごこちになっていた。声を聞きながら、どこまでが起きていて聞いたのか、夢の中での出来事なのか、曖昧な意識は朝目が覚めてからもしばらく続いていた。
 左耳の裏に何となく違和感を感じる。痛いというところまではいかないが、間違いなく昨日の電話で受話器を押し付けた証拠である。電話がどれほどの時間だったのかは覚えていないが、五分前後くらいだったのではないだろうか。
 話した内容など覚えていない。覚えているのは、最初に聞いた二言三言くらいだ。後のすべては夢心地、自分が何を話したのかすら覚えていない。
「まさか、恥ずかしいことを話したわけではないだろうな」
 いや、もし相手と同じように自分も気分が盛り上がってしまっていれば、途中でやめることなどできないはずだ。夢心地が朝まで残っているということは、きっとそのまま声に酔ってしまって、眠ってしまったからに違いない。
 いたずら電話なのかも知れないが、こんないたずら電話なら悪くもない。そんな風に思ったのは、昨日からの仕事でイライラが残っていたからだった。イライラのせいばかりではないが、久しぶりに昨日は呑んで帰ったのだった。
 荻沼が会社の帰りに呑んで帰ることは稀だったが、やけに焼き鳥屋から匂ってくる香ばしい香りに誘われるがごとく、店の中にフラフラと入っていった。
 今年の冬は始まりが曖昧だった。夏が暑かったせいか、季節の変わり目がハッキリとしない。
 しかも、秋には雨が多く、スッキリとしない日々が続いていた。夏バテが解消されることもなくジメジメした天気、気分的にもイライラが募ってくるというものである。
 寒くなってからも湿気が多かった。おかげで、一気に寒くなることはないが、いずれどこかで寒波が襲ってくることだろう。
 焼き鳥屋へ入ると、煙のすごさはさすがだった。
「いらっしゃい」
 威勢のいい声が店内に響いた。
 第一声が店長の威勢のいい声だったので一瞬気付かなかったが、中は結構人がいて、ざわついている。宴会のように盛り上がっているわけではなく、数人同士で来ている客がそれぞれで話している声が交じり合っている。その間隙を縫って店の人の威勢のいい声が響く、それこそが焼き鳥屋の雰囲気なのであろう。
 単独で来ている客もいるが、見ているとずっと下を向いていて、どこか寂しそうである。
――俺もあんな感じなのかな――
 人を観察しすぎるのも、問題である。どこか自分を客観的に見ているところがあり、人を見ることで、自分を見ているように思ってしまうくせがある。そんな自分を時々嫌になることもあったが、観察力があるということなのだから、それも仕方がないことなのだろう。
 現在抱えている仕事が、とりあえず一段落したこともあって、安心感があったのか、居酒屋の雰囲気を見る余裕があった。
 単独の客が思ったよりも多いのには驚いた。だが、ほとんどが、二人か三人で来ている客で、友達同士というよりもアベックが目立っているのは意識過剰になっているせいだろうか。
 荻沼は、最近彼女と別れたばかりだった。三年間付き合ったが、雰囲気も悪くなかった。このまま付き合っていけば、結婚の二文字を考えるだろうと思うほどの相手で、気持ちも通じ合っていたと思っていたのだ。
 別れたことを後悔しているというよりも、今までそばにいてくれた人が急にいなくなる寂しさを今は実感している。ここまで寂しく思えてくるなど、別れを決意した時には考えられるものではなかった。男は女性と欲するのは本能のようなもので、女性というものに対して意識が強いのであって、女性を意識しなくなると、寂しさは自然となくなるものだと思っていた。その思いに間違いはないが、一人でいて感じる寒さや冷たさは、今までの比ではない。
 それだけに寒さを感じないはずの今年の冬に寒さを感じるのは、心の隙間を通り抜ける冷たさであった。服を着ていても着ていないのと同じ感覚である。今までは、服を来ていることを忘れさせられるほど、一緒にいることが当たり前だった彼女がいないのである。違和感がないなどありえないことだろう。
 湿気が身体にへばりついてくる。普段感じなかった匂いまで感じるようになっていた。雨が降り始める前は、匂いで分かる。何とも言えない石をかじったような匂い、埃を吸い上げる蒸気が匂いを運んでくるのだろうが、湿気の強さをまともに感じるようになった荻沼には雨が降る前の感覚が分かるようになっていた。
「雨が降る前なんて、何となく分かるものよ」
 彼女が話していたことがあったが、荻沼には分からなかった。自分が鈍感なんだけだと思っていたが、匂いを感じる感じないが精神的なものだということを知らなかった。
 ということは今思い返してみると、
――彼女は俺といる時も自然な感情以外のものを持っていたのだろうか――
 と疑いたくもなる。
 だが、それは一概に比較できるものではない。
 荻沼は一つのことに集中すると、のめりこむ方で、まわりが見えなくなることが多い。特に相手は彼女である。一緒にいる時、他のことを考えることが失礼だとさえ思っていたほどだ。
 律儀といえば律儀だが、融通が利かないことに対しては、一緒にいる人には億劫だったに違いない。
 会社で仕事をしていても、賛否両論だ。
「荻沼は融通が利かないので、いろいろ頼めない。仕事ができるとは言えないぞ」
 という上司もいれば、
「俺はコツコツとした仕事ができないので、羨ましいよ」
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次