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短編集116(過去作品

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 その手は汗ばんでいて、緊張しているのが分かった。指が上がってきて、付け根部分まで来ると、急に臆病になる。それ以上のことをしようとしないのだ。
 皐月はじれったさもあったが、彼がそれ以上しようとしないのであれば、それでもよかった。彼の興奮は十分に伝わってくる。首筋には吐息が漏れていて、
「はぁはぁ」
 という声も聞こえていた。これ以上のことをするとキレルかも知れないと感じた皐月は、次の駅に到着したのと同時に駅を降りた。
「お嬢さん、大丈夫でしたか?」
 後ろから声が聞こえる。後ろを振り返ると一人の男性が立っていた。ニコニコ微笑んでいたが、本当に心配そうな口調だった。
「え、何がでしょうか?」
「大丈夫ならいいんですが、嫌な思いをされたのであれば、駅員に話すなら私もご一緒しますよ」
 この男に見られていたのだ。顔がカッと赤くなり、皐月の本心を見抜かれないかドキドキしていたが、相手は紳士のようで、皐月がされたことを説明するような野暮なことはなかった。
「ありがとうございます。ええ、大丈夫ですよ」
「時間がおありでしたら、コーヒーでもいかがです? 少し落ち着かれるといい」
 そう言っている男の表情には説得力があった。
「ええ、それじゃあ、お言葉に甘えて」
 あっさりついていったのは、見られてしまったことで、このままではこの人に本音を見抜かれたかどうか分からないまま別れるのが気になったのと、中途半端で火照った身体をそのままにして、一人でいたくないという思いがあったからだろう。
 男は改札を抜けると、
「そこのビルに喫茶店がありますので、行きましょう」
 駅前ロータリーは駅コンコースとバス停だけは賑やかだが、そのまわりはまだ閑散としていた。自分が乗ってきた駅もそうなのだろうが、いつも朝の駅は電車に乗ることだけが目的なので、今まで駅のまわりを見ていなかった証拠であることに今さらながら気がついた。
 年齢的にも家に帰れば大きな子供もいるかも知れない。暖かい家庭を想像すると、羨ましく感じられた。皐月には暖かい家庭は無縁だったからだ。
 出張がちの父親に、好き勝手なことをする母親。母親が不倫をしていることは知っていた。しかも隠そうとしないおおっぴらな性格であるから始末に悪い。近所では不倫をしていると有名なようだった。
 父親ほどの年の離れた男性に憧れるのは当然だったのかも知れない。男の巧みな言葉もあって、次第に皐月はその男に惚れてしまった。
――電車の中では若い男の子に、自分が優位に立つことの悦びを感じたというのに――
 皐月は自分に二つの面があることを感じた。それも、いろいろな面での二つである。
 年下への優位な気持ちになる時の自分、そして年上の男性に憧れる自分。淑女である自分、オンナとしての自分……。
 皐月は、彼を「おじさま」と呼んだ。名前は如月竜夫というが、名前で呼ぶことはほとんどなかった。
「おじさま」という呼び方は都合もいい。知らない人は、親戚だと思うだろう。叔父と姪の関係であれば、腕を組んで歩いていても誰も不思議に感じることはないだろう。ただ、その時の皐月の表情がどうなのかということが心配ではあったが……。
 皐月は自分の気持ちが表に出る方である。隠し事ができずに、素直な性格と言ってしまえばそれまでだが、損をする性格でもある。そこは母親の遺伝かも知れない。嫌いなはずの性格が遺伝してしまったことを悔やみながらも、
――それならそれで、自分の性格としてしっかりしていればいいんだ――
 とにかく自覚することが大切だと思うことにした。
「おじさま」が皐月を抱いたのは、完全に皐月の気持ちが靡いてからだった。すでにじれったさすら感じていた皐月に抵抗する気持ちなどさらさらなかった。
 若い男性のようにせっかちなところはなく、ひたすら焦らしてくる。身体の火照りから勝手に動く身体を感じながら、男は行動を起こす。最初こそすべてを相手に任せるような気持ちで身を任せていたのに、いつも間にか皐月が奉仕している。これが熟年男性のテクニックなのだろう。皐月はそのテクニックに溺れてしまった。
――でも、何かが足りないわ――
 巧みではあるが、皐月が本当に感じるところが分かっていないように思えた。それは男性の限界ではないかと思えたのだ。
 皐月は、しばらくして博美に出会った。
 博美とは何年ぶりかの再会だったが、まるで昨日出会ったように思えるくらいに違和感がない。そのくせ、懐かしさがこみ上げてくるのはなぜだろう。
「博美、結婚は?」
「一度したんだけどね。どうにも相性っていうのが合わなくてね」
 博美のいう相性とは、ズバリ身体の相性だった。
 二人で久しぶりに酔っ払った。身体の火照りから、ちょっと触れただけで、ドキッとするほど敏感になっている。
 皐月は、そのまま博美の部屋になだれ込んだ。
――なるほど、生活観に溢れているわ――
 離婚して一人暮らしの女性の部屋。あまり想像したことはないが、女性の部屋にしては少し荒れている。
「まだ、精神的に引きづってるの?」
「そうね。寂しいのかも知れないわ。でも、一人で慰めたって、所詮知れてるわよね」
 寂しそうな顔をする博美がいとおしかった。せっかく酔って気持ちよくなっているのに、一人冷められてしまっては、皐月も困ってしまう。
 思わず博美を抱きしめる。
「皐月」
 一瞬驚いた博美だが、博美も皐月を抱きしめる。あまり大きさも体系も違わない二人は身体が密着している。胸の膨らみや柔らかさをお互いに感じると、
――これだわ――
 「おじさま」に感じることができなかったものが、分かった気がした。
 男性からは、満たされる感覚を味わうことができるが、結局最後はやってくる。上り詰めてしまったら、待っているのは憔悴感であった。
 だが、女性同士であれば、上り詰めた後でも、決して最後はやってこない。ずっと燃え続けることができるのだ。
 それが人間としての「禁断」であり、開けてはならないパンドラの箱なのかも知れない。だが、皐月は足を踏み入れた。しかも「おじさま」との関係を続けたまま、博美とも続ける。
 博美は皐月に男がいることを知っている。だが、嫉妬はしない。男に負ける気がしないからだろう。
 いや、男は眼中になく、男といる時の皐月は、あくまでも自分との気持ちを盛り上げるための道具くらいにしか思っていないに違いない。
 博美は最初、皐月を男性依存症だと言った。確かにそうだったのだろう。母親の遺伝もあった。そのことも自覚していた。そして、自分の中にあるオンナの深い部分が、変態的な行為に目覚めさせたとも思っていた。
 だが、博美との関係に落ち着くための、すべてがプロローグに過ぎない。そして博美との関係を築くためには、「おじさま」とのお付き合いもやめるわけにはいかない。こんな関係がいつまで続くか分からないが、もう、引き返せないところまで来ていた。
「おじさま」にも次第におかしな性癖が見え隠れするようになっていた。
「私は人から見られているという意識がないと、燃えないんだ」
作品名:短編集116(過去作品 作家名:森本晃次