小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集115(過去作品)

INDEX|9ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

――もし影に形があって、元のものといつか置き換わろうと画策しているとすれば――
 そんな恐ろしいことを考えないでもない。
「影に心や意志がないと誰が言えるだろう」
 北野はファインダーを見つめながらいつも考えていた。
 誰から言われるわけでもないことを、ファインダーを覗いている時に思い知る。写真の魅力であり、陥ってしまうと逃れることのできない魔力でもある。
 ぶつぶつ呟くようになった理由の一つとして思いつくことといえば、昔からテレビっ子だったことも原因にあるだろう。アニメが好きでヒーロー物に憧れていた。小学生の頃というのは、大なり小なりテレビっ子であり、男の子ならヒーロー物、女の子なら魔女物のようなヒロインに憧れたに違いない。
 もう少し遅く生まれていれば、テレビゲームの世代だったかも知れないが、北野の世代はアニメ最盛期だった。
 アニメヒーローというと、どうしてもブラウン管を通して感情を見ている人に表すために、いつも恰好いいセリフを吐いている。それを見て育ったのだから、感情を思わず口に出すのも仕方のないことだろう。
 小学生の頃、よくヒーローごっこをして遊んだものだが、変身ポーズとともに、恰好いいセリフもお約束の一つだった。
 大きくなるにつれて、独り言を発するのはあまり格好良くないということは分かっているはずであった。しかも、自分の他に独り言をいう人がいれば、惨めに見えてしまっていた。
 自分も独り言が多いのは分かっているから、余計に人がしているのを見ると腹が立ってくるほどであった。
 独り言をいうのには、もう一つ考えられることがある。
 それは言い訳に聞こえてしまうからだ。独り言というのは自分の気持ちを表に出したい時に発するもので、本来であれば、そんなにたくさんあるものではないはずだ。それなのに思わず口にしてしまうことのほとんどは、
「口に出さないと、誰も分かってくれない」
 という気持ちが働いているからに違いない。
 人に分かってもらわなければならないわけでもないのに、どうしてそこまで思うのかということを考えてみると、自分にそれだけ自信がないのだ。
「誰かに分かってもらいたい」
 という気持ちが強く、何を分かってもらいたいのか、分かってもらってどうしたいのか、具体的なことは何も分かっていない。ただ、誰かに訴えたいだけなのだ。
 自己満足に過ぎないのかも知れない。
 訴えたところで、まわりがそれを分かってくれるわけではない。実際に他人の独り言に腹を立てるのは、自己満足だという意識があるからだろう。
「自己満足のために聞かされるこっちは溜まったものではない」
 と思っているくせに、自分のことを棚にあげてしまう。実に身勝手な話ではないだろうか。
 それでも学生時代には、誰も何も文句をいう人はいなかった。社会人になってもあまり人から何も言われないが、視線が違っているのである。
 学生時代には、そこまで考えることはなかった。まわりのことをあまり真剣に考えるタイプではなかったというべきか、考えなくてもまわりが動いているところへ自分が乗っかるだけでいいと思っていた。
 それもちゃんと乗っかっているかどうか、意識していたわけではない。まわりのリアクションを見て、嫌がることだけやめればよかった。むしろ学生時代というのは、いろいろな人がいて、少々のことは「個性」ということで済まされるからである。「個性」が強い人間に、尊敬の念を抱いているくらいであった。
 社会人になれば、許されないことでも、学生なら許される。甘い世界だと言ってしまえばそれまでだが、それだけではない。
 学生時代ほど、自分の個性を磨ける時代もないからだ。
 確かに、
「類は友を呼ぶ」
 という言葉が示すとおり、学生時代には同じような考えを持った連中が集まるようだ。入学当時、まだ何も分からなかった頃の北野は、同じ考えの連中を探し、話をすることが一番楽しかった。
「俺って結構変わり者だからな」
 と高校の頃から感じていたが、大学に入ると同じような考えの連中が思ったよりもたくさんいることで嬉しくなったりした。
 人から影響を受けやすいことで自己嫌悪を感じていたが、その反面、本能というのを大切に考えていた。
 何も考えずに行動することは、危険であるし、モラルの面でも敬遠されるところがあるので、本能的に行動する人間はあまり好かれることはないと思っていた。
 だが、本能というのは、人間が持って生まれた自然な行動を示している。お腹が減れば食べたいと思うし、眠たくなれば眠るし、女を抱きたいと思えば、身体が反応する。これはすべてが本能ではないだろうか。
 そういう話をすると、
「そうだよな。欲と呼ばれる行動も、すべてが人間の持って生まれた本能だからな。抑止力があったとしても、全面的に否定したり、諸悪の根源のような見方で見られるのは遺憾だよな」
「人間だけじゃなくて、他の動物すべてに言えることで、だからこそ、敬遠されるんじゃないかな」
「人間には理性があるから、他の動物との違いを考えると、本能よりも理性の方を重く考えるから、そんな見方になるんだろう」
「でも、本能を抑える方にばかり見ていてはいけないと思うんだ」
 こんな話をいつもしていた。話の取っ掛かりは違ったとしても、話の結論は、いつも同じところに落ち着く。それだけ同じような考えを持った連中が集まっているということになるのだろう。
 本能の話をする連中は、本能の話題では一致しているが、それ以外はまったく性格も意識も違っている。「本能」という共通点があるといっても、つるむだけのつながりではない。いつも一緒にいる仲間ではないということだ。
 そのことに皆それぞれ気付いている。ほとんどの連中は、普段は一人でいることが多いが、北野は客観的にまわりを見る目を持っていた。そのせいか、いろいろなグループに顔を出していた。
「広く浅く」
 という関係であろうか。
 遊びに行く友達、スポーツの話題や、観戦で盛り上がる友達、雑学等に造詣の深い仲間が集まって作ったサークルにも顔を出していたりした。
 サークルも掛け持ちしていたが、それでもよかった。他の仲間の多くはサークルの掛け持ちをしていたからだ。
 これも北野の個性だった。一つのところに留まらず、たくさんの人と広く浅く付き合う考え方は本能によるものであって、少し下がって客観的に自分を見ることができるからだと思っていた。
 今から思えば、その頃はあまり独り言をいうこともなかったような気がしていた。だが、あれは大学を卒業してしばらくしてからサークルの仲間が集まっての呑み会があった。
 サークル活動自体はそれほどのものではなかったが、仲間意識だけは強い連中がたくさんいたのも事実で、北野がサークルに参加したくなったのも、そんなところに理由があったのかも知れない。
 そこで写真の趣味を覚えたのだ。
 サークルは幅広いものだった。雑学を中心に、芸術的な趣味をそれぞれで発表するものだった。雑学を勉強している連中の中にはクイズ番組に出て、優勝した人もいたり、美術を勤しんでいた人の中には、二科展で入賞した人もいた。
「実際のクラブに所属すればいいのに」
 と言われる人もいたが、
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次