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短編集115(過去作品)

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死を目の前に



                死を目の前に

 何が不満なのか、何が楽しいのか、いつもぶつぶつ呟いている人がいる。
「鬱陶しいな」
 と思っているが、気がつけば自分も呟いている。
 そんな思いをした人もいるのではないだろうか。北野学は最近、自分が呟いていることを気にしていた。
 何かに集中していると呟きたくなるのであって、呟いていないと集中できないと思っている。まわりの人には迷惑かも知れないが、それも後になって思うことで、呟いている時は本当に集中している時なので、自分でも分からない。
 集中していると時間を忘れるもので、時間があっという間に過ぎてしまっている。本人からすれば、
「早くさばくことができた」
 と思っているが、費やした時間は、仕事量に相応している。自己満足のたぐいかも知れない。
 それでも生活のリズムが出来上がっていることが嬉しかった。ダラダラ仕事をするのではなく、メリハリを付けて仕事をこなすには、それなりにリズムが必要だ。それは仕事だけに限らず仕事を離れてからも言えることである。仕事にメリハリを利かせれば、普段の生活にもリズムが生まれるというものである。
 仕事での心残りやストレスを残さないことも大切である。そのためにリズムが必要なのだ。
 音楽を聴きながら仕事をすると集中力がなくなるという人もいるが、北野は違った。軽音楽やクラシックであれば、リズムよく仕事に勤しめると思っている。そのためには趣味を持つことも大切だった。
 北野には写真の趣味があった。コツコツ溜めていたお金と、初めてもらったボーナスでカメラを買った。三十万円くらいしたカメラで、かなり高価なものである。
 デジカメ全盛の今の時代に、まるで逆行したかのような趣味だと言われそうだが、今だからこそ、レトロなカメラが貴重だと思っている。自分の部屋に暗室を作って、自分で現像をしている。そこまで徹底してこその趣味と言えるのではないだろうか。
 写真は主に風景が多い。時代の移り変わりは激しく、新しく登場するものもあれば、時代に逆らえず退役していくものもある。そのどちらも芸術作品にふさわしいのだろうが、北野はあえて退役していくものに焦点を当てる。
「美学を感じるんだ」
 今までの苦労を一身に受けて、後輩へ受け継ぐ勇退。任務を最後までまっとうすることに美学があるならば、
「お疲れ様」
 という言葉には、癒しと尊敬の念があるのだ。ファインダーを通して見ると、まわり全体を見ることができない。それだけ、被写体に集中しているのだが、ずっと見ていると、レンズ越しに見ているという感覚がなくなる時間がある。その瞬間にシャッターを切る時が一番生きた写真を撮れるのだと思っている。
 写真は虚像であるが、いかに生きた立体感のある作品を作り上げるかがアマチュアとはいえ、写真家としての技量だと思っている。そのために、同じ写真をいくつも写し、見比べて研究することで、向上心を掻き立てていく。
 被写体への集中力、それが自然にできるようになると、景色と自分が一体化したかのように感じることができる。その都度見え方が違うのも当たり前のことだ。
 じっと見ていると、次第に被写体が小さくなってくるのを感じる。これは人間の感覚として無理もないことだと思っている。集中していると言っても、最初はなかなか目の焦点が合わないものだ。なぜなら肉眼で見ているくせがついてしまっているので、ファインダーを通す時、最初は焦点が定まらない。
 焦点を合わせようとすると、当然眼球圧が微妙に調整を始め、目を細めてみたり、明るさを調節しようとするだろう。それは無意識であって、自分の意識の外にあるものだ。
 意識の外にあるとはいえ、瞬きをしないわけにもいかず、瞳の潤いが調整を助けてくれる。
 最初は涙が出ていたが、これも調整のためには必要なことだった。なかなか自分の理想の写真が撮れない時期が続いたが、それも調整がうまくいかなったためだろう。
 最初は自分のことだけで精一杯だったが、ファインダーを覗くことに慣れてくると、今度は被写体を気にするようになっていく。
 角度は影の付き具合、まわり全体から見た縦横の軸に対しての位置、まずはまわりから攻めてくる感覚だ。
 北野は、中学時代、ジグソーパズルに凝っていた時期があった。風景や、芸術的な建物を作るのが好きだったのだが、風景ほど難しいものはない。
 色にあまり変化がないからであった。
 森は緑、空は青、それに少し影が入ると、色が深くなっているところがある。パズルの基本は、まずまわりを固めることから始まるが、あとは人それぞれではないだろうか。まわりを固めることだけは人から言われなくても安易に思いつくことだが、そこから先は一人でやっている分には試行錯誤になるだろう。
 色の違うものを分かれて作り上げるのも手だし、作り上げたまわりの骨格から内側に攻めていくのも手である。
 いろいろと試してみたが、どちらも「帯びに短し襷に長し」とばかりに、思ったように捗るわけではない。
「どうしたものか」
 いろいろと考えていたが、答えはそう簡単に見つかるものではない。
「だからこそ面白いんだろうな」
 とも思えた。そう簡単に答えが見つかっては、趣味として面白くないというのが北野の考えである。
 とりあえず、まわりから固めることを自分の中の一つの結論として作り続けた。それが正しかったかどうか、今でも分からないが、そのおかげで写真を撮っている時も、まわりから意識し始めて、次第に中心部へと目を向けていくようになっていた。
 それが功を奏したというべきか、まわりから中心部へと目を向けていくと、次第に被写体が小さく感じられるようになる。小さいことに目が慣れてくると、今度は次第に中心部からまわりを見るようになり、また大きく見えてくる。
 これは遠近感という意味でも大切なことだった。
 小さく見えている時は遠くに見える感覚で、大きく見えるのは近くに見えている感覚でもある。遠くに見えるものは目を凝らして、なるべく目を細めるようにするものだが、近づいてくるにしたがって、今度は細部まで見えてくる。
 細部まで見えてくると、色に注目するようになる。深い色は影になっていて、影の部分はハッキリと奥まで見えるわけではないので、想像だけにしかすぎない。それでも集中していると、影を中心にまわりを見ていることに気付く。
 被写体を見る時、影が中心に来ている時の方が、明るさを中心にして、端の方に影を追いやっている時よりもバランスがいいのだ。
 それはきっと影に奥行きを感じているからではないだろうか。
 ハッキリと見えているものだけを見つめるくせがついている人生の中で、初めて影というものを真剣に考えていた。
 今までにも影を気にしたことはあったはずなのだが、怖くて見ることができなかっただろう。
 影というのは、暗闇の中では隠れているものである。明るい光があってこそ、その存在があからさまに表現できるものである。
 そして影には必ず元があるはずである。元のない影など存在するわけもなく、そのことを無意識に分かっているから、影を嫌うのではないだろうか。
 影の中に影が隠れていると、ぶつかっても分からない。
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次