短編集115(過去作品)
と言われるかも知れないが、結論からいうと、自分でもよく分からない。
しいて言えば、
「他にやりたいことがなかったからだ」
というのが理由といえば理由になるだろう。
勉強もくせである。集中してできるようになると、勉強していないと不安になってくる。勉強していることによって、今度は目に見えて成績も上がってきて、次第にまわりが期待するとようになってくるのが分かってきた。
普通なら期待されれば、それなりにプレッシャーを感じるものかも知れないが、堤にプレッシャーという言葉は無縁だった。
大学受験も無事に浪人することもなく志望校に入学でき、会社も念願の証券会社へ入社できた。順風満帆な進路は、いわゆるエリートコースであった。
しかし、すべてうまくいっていたわけではない。同じエリートであれば、誰もが感じることであろうが、レベルの高いところに入ると、それまでの周りに比べれば、レベルは確実に上である。
高校の頃には、成績はトップクラスだったが、大学に入るとまわりは同じレベルの人間がさらに受験という壁を乗り越えて入学してきたのだ。それまで感じていた優越感など、一気に吹っ飛んでしまう。
就職でもそうだった。同じことが言えるのだ。
「俺はエリートなんだ」
という意識を持っていないと潰れてしまう世界であるが、それだけでは苦しい。謙虚な気持ちも持ち合わせていなければならないだろう。
そのどちらも幸いにして堤は持ち合わせていた。そのおかげで、それほど苦労することなくまわりに解け込むことができた。
だが、そんな堤だったが、順応性にかけてはどうだっただろう? どちらかというと一匹狼的なところがあって、人に馴染めないところがあった。それが一番苦しいところであっただろう。
気丈で、頑丈で、そんな自分に精神的なストレスなど存在するはずはないと思っていた堤だったが、医者から指摘されて考えてみれば、かなり自分の中で精神的に押し殺してきたものもないとは言えない。
感情を表に表わすことがあまりなく、喜怒哀楽もハッキリしていなかった。
目立たないというわけではないが、人から指摘されると、素直に受け止めていたので、あまり嫌われることもなかった。
もっとも人から指摘されるよりも指摘する方が多かったのも事実で、それは仕事上仕方のないことだった。
そういう意味では、腹を割って話をする相手は今までにまわりにはいなかった。
「親友と呼べる人の数が多いほど、人生って楽しいものだ」
呑み会でそう話していた後輩がいたが、その時は何とも思っていなかったにも関わらず、ベッドの上で一人横になっていると、そのことを今さらながらに思い出してしまう。
入院して二週間ほどして、担当看護婦が変わった。
変わったというより、新人研修が始まったようで、先輩看護婦について新人が研修することになったのだ。
彼女は看護学校を出て間もないようで、まだまだぎこちなさが残っている。だが、誠心誠意という言葉が似合う彼女の姿は見ていて気持ちがいい。
病院のベッドの中に長くいると、病気は少しずつよくなっていくようだが、それに反して、ストレスは溜まっていく。最初は落ち着いた気持ちになれたが、それでも一週間、二週間と経つうちに、自分でも目に見えてストレスが溜まってくるのが分かってくる。
他の入院患者とは、どうしてもうまが合わない。嫌いだとか、嫌われているというわけではないのだが、会話に入っていけなかったり、
「どこか自分とは違うタイプの人間だ」
と思い込んでしまっている節がある。それだけに、ストレスの溜まり方も目に見えてくるというものだ。
自分でも見えてくるのだから、まわりには敏感に見えていることだろう。中には露骨に嫌な顔をされることもあるくらいで、だからといって、どうしようもなかった。またしても、それがストレスになって溜まってしまう。それが悪循環を呼んで、下手をすると入院生活が長引くのではないかと、余計なことを考えてしまう。
だが、新人の看護婦が来てくれたことで、精神的にかなり楽になった。他の患者とも新人看護婦の話題で話ができるようになったのも大きいかも知れない。
誰もが彼女の手厚い看護を喜んでいた、何しろ入院という閉鎖的な中での仲間たちで、その結束力は強い。だからこそ入っていけないところがあったのであって、それまで足踏みをしていたのだ。
だが、仲良くなればこれほど楽しいこともない。人と話ができないというのは、ただの食わず嫌いで、話してみると元々が営業、話題性には事欠かない。
彼らからの話題の提供は、少しずれるところがあるが、堤の提供した話題は少し高貴な話題であっても、彼らは真剣に聞いてくれた。それが嬉しかったのだ。
新人看護婦の名前は、さつきという。本当は苗字で呼ばなければいけないのだろうが、誰もが親しみを込めて、
「さつきちゃん」
と呼ぶ。さつきも、
「いいですよ。皆さん、そのように呼んでくださいね」
と言ってくれた。苗字は名札を見ないと分からないくらいで、先輩看護婦も皆につられて、苗字を言わない。だからますます苗字を忘れてしまっていた。
さつきも看護学校では成績は優秀だったようだ。しかし、実際に社会に出ると、すべては新人からである。そのことへのギャップを感じているようだった。
そのことを一番分かっているのは堤ではないだろうか。同じ看護婦仲間に話せないようなことでも堤には話してくれる。
次第に仲良くなっていくのも自然なことで、さつきが赴任してきてからの入院生活はある意味バラ色だったが、あっという間でもあった。
「退院するのが、もったいないな」
と思ったくらいだったが、退院するまでには、さつきの連絡先は聞いておいた。退院してから少しして連絡を入れると、彼女はよほど嬉しかったらしく、
「ありがとうございます。忘れられていたらどうしようって思っていました」
久しぶりに聞いた声は、懐かしさだけではなく、電話を通してということもあるのか、とても新鮮で可愛らしく聞こえた。しかもこんなセリフまで言われては、
「忘れるわけないじゃないか。今度食事でも一緒にどう?」
「はい、喜んで」
それを機会に二人は急速に仲良くなっていった。堤の方は、次第に結婚も意識するようになっていった。彼女が最初から結婚を意識していたかどうか分からないが、お互いにいい雰囲気であったことは間違いない。
退院してから、仕事に復帰すると、今度はまた支店まわりに降格になっていた。それも仕方のないことで、もう一度現場から感覚を見直すというのもいいことかも知れない。実際に部長からもそう言われていた。
久しぶりにスーツに身を包むと、身も心も引き締まったように思え、張り切っていた。
出張先での行動もまるで若かった頃の自分を思い出したようで、自分が若返ったようだった。
そういえば、出張前に喫茶「ガス塔」に寄った時に鏡を見た。
「俺ってこんなに若々しく見えるんだ」
本当に若返ったように思えた。
仕事に復帰して、自分が若返ったように思えてくると、今度はさつきのイメージが頭から次第に消えていくのが不思議だった。
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次