短編集115(過去作品)
結婚しようとまで考えていた女性である。未練がないわけではないが、あっさりと諦めてしまうには、それなりに理由がいる。それが相手を憎むことで理由の代わりにしようとしていたとすれば、少し惨めではないだろうか。
いや、実際にそれだけの女たちだったのかも知れない。自分の人生を賭けるだけの価値のない女。相手に見切られた時、島田の中で自分への過剰な自意識がそう感じさせていたに違いない。
今回知り合った相手は主婦である。しかも低姿勢でこちらに接してくる。
「完全に優位に立てる」
最初からそんな打算があったのかも知れない。
軽い遊びのつもりでは潤子に気の毒だが、少なくとも最初に喫茶店で話をしていた時に情が移ってしまったことは紛れもない事実だった。
潤子は自分の悩みを切々と訴えてくる。それでも本当に悩んでいることの半分、いや、ほとんど話せていないに違いない。その証拠に言葉を選んでいるのが見て取れる。それだけどのように話せば相手が分かってくれるかを試行錯誤しながら話しているからに違いない。
その気持ちがハッキリと伝わってきた。いとおしいと思うのもそのあたりに理由がある。
「ごめんなさい。私のことばかりをお話して。でも、今は誰かに聞いていただきたいの」
と話す彼女に、
「分かっていますよ。誰かに話すだけでも気持ちが落ち着いてくることってありますよね。そんな気持ちは私にも分かります」
「嬉しいわ。分かっていただけるんですね。こんなことを話せる相手がまわりにいなくて、一人でいつも悶々としていたんですよ」
「嬉しいわ」
というこの一言にドキっとしてしまった島田だった。今まで女性にそんな言葉を言われたことはない。お互いに何を考えているのか分からないような会話ばかりだったように思う。
相手の出方ばかりを探っていたような会話――。
それを紳士と淑女の会話だと思っていたのは、島田だけではなく、相手の女性もそうだっただろう。
どちらが先にそのことに気付くかということがポイントだったに違いない。
初めて会って、ここまで話をするということは、相手が完全に島田に安心感を抱いているからであろう。そうでなければ話せないことだと思う。
島田も同じだった。
「彼女が話したいことは、すべて聞いてあげたい」
と思う。今までに感じたことのない思いだった。
いや、感じたことがないというのは語弊がある。消えかかっているほど遠い記憶の中に存在しているものだったと訂正すべきであろう。
この感覚は小学生時代の尚子に感じたものを思い出していた。
尚子は無口であまり話をしなかったが、目で訴えるものを感じていた。島田は言葉で誘導するが、それに逆らうことは一度もなかった。
尚子に対して、今から思えば性的な悪戯をしてしまったこともあった。
尚子は顔を真っ赤にして耐えていた。島田は苛めだという認識があったが、女性にとって恥じらいを感じさせるもので、変態行為だという感覚まではなかった。ただ、真っ赤になった尚子の顔を見るのが楽しかっただけである。
いつも無口でポーカーフェイスな尚子に、一度抗う態度を取らせたいと思っていた。顔を真っ赤にしているのは、抗っている証拠ではあるのに、それでも口からは何も出てこない。
「やめて」
という一言でも出てくれば、どんな気持ちになっただろう。その時は、そのままやめていたと思ったが、大人になっていくにしたがって、
「あのままやめるなんていうことはなかっただろうな」
と感じている。
もっとエスカレートしてしまって、どうなっていたか分からない。男女としての意識がないまま、禁断の領域に子供の気持ちが入り込んでしまって、いずれ男女としての意識が出てくれば、その時にどうなっているだろう。考えただけでもゾクゾクしてくるが、半分恐ろしい気持ちになってくる。
「きっと、気持ちが萎えることがなく、ずっとお互いを思い続けていたかも知れないな」
根拠はないが、そう思えて仕方がない。
性的な悪戯をした時、ただの悪戯のつもりだったが、その気持ちの中に、
「彼女のすべてを知りたい」
という思いがあったのも事実である。
それまで見せたことのない態度、もちろん、他の誰も知らない尚子の態度に興奮していただろう。
「俺って変態なのかな」
一瞬感じたが、変態というのがいいことなのか悪いことなのかの判断もできない子供だったのである。
だが、そんな悪戯をしている自分を冷静な目で見ている自分もいることに気付いていた。
「お前って、子供の中でも最低なやつだな」
もう一人の自分が嘲笑っている。嘲笑っている相手を意識すると、意識は逆に相手に写っていた。
「相手も自分なのだ」
と思ったからであろう。相手のいうことも分かる気がした。だが、最低な自分をどうすることもできない。ただ、何が最低なのかということだけは分かっていたように思う。同じ年頃の子供たちで、自分たちの中で何が最低なのかということを意識したことのある子供が本当にいるだろうか。
そんなことを考える子供だった。何とも生意気ではあるが、恐ろしさを感じさせる子供だった。
大人になるにつれて、その時の変態行為を忘れていった。もう一人の自分の存在を感じたことで、
「あれは、もう一人の自分がやったことなんだ」
と責任転嫁をしていた。
だが、所詮子供の過ちである。大人になるにつれて改めればそれで帳消しになるであろう。もう一人の自分には悪いが、ここは成長していくために意識の中で悪者になってもらおう。
尚子はそれから島田に近づこうとはしなかった。同じクラスになっても、話をすることもない。相変わらず誰とも話すことのない女の子のままであった。他の誰も尚子を意識することはなかっただろうが、島田には知り合う前と、知り合ってから今までとでは、まったく違った尚子に見えていた。自分の存在を差し引いても余りあるくらいであった。
尚子とは、中学も違い、高校も違った。
高校二年生の頃だったか、年末アルバイトで、年賀状の配達をしたことがあった。
高校生のアルバイトが数十人集められたが、その中に尚子もいた。
五年ぶりだったが、尚子はまったく変わっていなかった。誰とも話をするわけでもなく、一人でいつもいる。
そんな彼女がアルバイトにやってきた経緯は分からないが、ずっと意識の中にはあった。話しかけようと何度思ったか知れないが、話しかけられる雰囲気ではなかった。
島田自身の中に、小学生時代の忌まわしい行為がよみがえったのだ。
「このままそっとしておいてあげよう」
もし、彼女の方から話し掛けてくれれば、それに越したことはないのだが、その可能性は万に一つもないだろう。
実際に話し掛けてくれることはなかった。寂しい気持ちとともにホッとした気持ちがあったのも事実で、
「もう、あの時の俺じゃないんだ」
と感じる中で、
「あの時の尚子じゃないんだろう?」
と聞きたい思いを堪えるのに必死だった。本当は変わらぬままでいてほしいという気持ちは強かったが、それと同時に小学生の頃の忌まわしい記憶までも消えていてほしいという気持ちが強かったのも事実である。
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次