短編集115(過去作品)
尚子とはそれから一度も会ったことはなかった。だが、そんな尚子のイメージを目のまでコーヒーをすすっている潤子の中によみがえらせたのは島田だった。
「どう考えても尚子とは性格が違う」
と思えてならないが、島田の目には「もう一人の尚子」というイメージが現れては消えていくように思えた。
「私、死にたいといつも思っているの?」
「え?」
「亭主が長くないんですって」
それを聞いて、何とか彼女を慰めてあげたいと思った。自分にできることはそれしかないと思ったからだ。
島田は彼女をホテルに誘った。どう言って誘ったのかは覚えてしないが、潤子は黙ってついてきた。
――きっと従順な女なんだ――
頭の中に、尚子のイメージがあった。慰めてあげたいと思いながら、意地悪な気持ちが自分の中に見え隠れしていた。
潤子は抗うことをしなかった。されるがままに身を任せる。
島田はこれほど男冥利に尽きることはなかった。女が目の前で自分の思い通りになるのである。女を征服したような気持ちになっていた。
「ああ」
潤子が悦びの声を上げている。自分のために声を上げているのだと思い込んでしまう。いつの間には自分の世界に入り込んでしまった島田は、潤子の気持ちなど考えることはなかった。
「ほら、いいだろう? あなたは、強く強引に男に支配されたかったんだ」
と潤子の気持ちを高ぶらせるような言葉を吐いた。
「ああ、はい」
潤子は何を言われても従順に答えるしかなかった。
行為は次第にエスカレートしてくる。子供の頃の記憶が、尚子のイメージを潤子にダブらせて見ている思いが、島田をどんどん深みに落としていく。
「ああ、かわいそう」
潤子は誰かを哀れんでいる。相手はきっと亭主であろう。島田はその言葉を聞いた時、気持ちの中で何かが切れたのを感じた。
潤子を縛り始めた。ホテルに備え付けのガウンの紐の二着分を結び付けてそれで潤子の身体を拘束する。
「我ながらうまく行ったものだ。綺麗だよ」
芸術作品でも見るかのように島田は潤子の身体を見つめた。潤子の身体を起こして、部屋にある鏡張りの場所に連れて行き、彼女にも見せ付けた。
「恥ずかしい」
と一瞬目を逸らした潤子だが、
「これが私……」
再度鏡を見つめる。
「ありがとう。こんなに綺麗に彩ってくれたんですね」
「ああ、君は綺麗だよ」
島田にとって、これで潤子がすでに自分のものであることを確信した。
「これで、もう何も怖くはないわ」
潤子はしばし自分の身体を見つめていた。
「怖い? 私が怖かったのかい?」
「そんなことありませんわ。あなたは素敵な方ですよ。あなたは自信をお持ちになってもよくってよ。でも、今のあなたは自信の固まりのようですね」
「ああ、そうだよ。自信の固まりがあるから、初めて二人きりになった君に、ここまでできるんじゃないか」
「ええ、自信を持つことは大切ですわ」
そう言って、今度は潤子は鏡に写った島田の顔を見つめていた。だが、島田は自分の目を見つめられているわけではない。もう少し下に視線があって、それは潤子の顔と島田の顔の中間部分であった。そこに何があるというのだろう。
「あなたはご自分に自信を持てたのは、私という女の存在だけではないんでしょうね。私にはそれが何となく分かるんですよ。私も亭主に同じような思いを感じたことがあるんです。どうやら私を意識する男性は、私の後ろに違う女性を見ている人が多いらしいんですね。しかも、その人たちの運命は、長くは続かない……」
「どういうことなんだい?」
次第に不安が募ってくる島田。
「ああ、かわいそう」
また潤子は同じことを呟いた。
「でもあなたは、きっと今はこの世に未練がない気がするのよ、それだけが救いかしらね」
そういえば、今自分が死んでも、誰も悲しむ人がいないだろうとさえ思っていた。実は時々死について考えることもあって、
――今なら、誰に憚ることもないな――
死ぬなら今がいいなどと、おかしなことを考えたことも確かにある。だが、
――バカバカしい――
とずっと打ち消してきた。すぐに、
「死にたくない」
と口に出して言葉が出てきたからだ。
今も同じ心境に陥っていた。
潤子は、一緒に死んでくれる人を探していたのかも知れない。冷たくなった島田のそばに潤子が折り重なるように息が途絶えていた。
それからどれほど時間が経ったのか、二人の遺体を検分している警察と検視官が話をしている。
「刑事さん、不思議なんですがこの二人、外傷がまったくないんです。首を絞めた痕もなければ、薬を飲んだ痕もない。これほど綺麗な遺体が二つ折り重なっているのを見たことは一度もありませんね」
縛った痕も、愛し合った痕も残っていないということだった。二人の愛は一体なんだったのだろう? 愛し合う前にすべてが何もかも終わっていたと思うのは危険で無謀な考えであった。
二人の魂がどこへ行ったのか、それは誰にも分からない……。
( 完 )
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次