短編集115(過去作品)
という意識が頭をもたげたのすら、いつだったか分からない。だが、ハッキリと目が覚めた時に感じたのは間違いのないことだった。
部屋は真っ暗だった。
真っ暗な部屋の中で電話が鳴り響いているのに気がついた。
「起きていかなければ」
と感じたが、身体が重くて動かない。それでも身体を無理にでも動かそうとすると、頭の芯に傷みが走る。
次第に真っ暗な部屋に目が慣れてくる。電話の音にも慣れてきたようだ。無意識に頭痛を起こさないようにしなければならないと感じる。動くことは頭痛を誘発することなので、出なければいけない電話かも知れないと思うと動けない自分に苛立ちを覚えた。
汗が額から流れ出る。
「よし、このまま汗を出し切りたい」
酒に酔っているのは分かっている。真っ暗で湿気を帯びた部屋に、おびただしいほどのアルコールの匂いが充満していた。だが、北野自身は、充満しているアルコールの匂いが嫌いではない。きっと他の人が入ってくれば一瞬にして吐き気を催す匂いだとは思うが、自分では分からない。
ちょうど、餃子を食べた時に、まわりは臭いと感じるが、自分には分からない感覚に似ているように思えた。
電話が鳴り響く音が次第に意識の中に浸透していくと、それまでのことを思い出そうとしている。
眠っていて、夢を見ていた。夢の中で最後、電話の音を聞いたように思えたが、目を覚ました本当の原因は電話の音ではなかった。
夢の中で恐怖を感じた。目が覚めて息切れをしていたが、それは、アルコールが覚めていく過程のものだけではないと思っていたが、恐怖によるものだということは、暗闇に目が慣れてくるにしたがって意識してくることだった。
暗闇に目が慣れてきると、夢の中のことも少しずつ思い出されてきた。本当であれば、夢の中のことは目が覚めてくるにしたがって忘れていくものなのだろうが、その時はまったく逆で、目が慣れてくるほど、思い出されてくる。今までにも同じような感覚に陥ったことがあって、それがいつだったのか思い出そうとしたが、昨日のことのように思えてならない。だが、昨日ではないことはハッキリとした自覚があり、引っ張り出した記憶と、意識とがかなりの違いを持っているようだった。
夢で感じた恐怖、それは何かが迫ってくる恐怖である。
夢の中は一人だった記憶があった。一人でいるくせに何かを呟いている。
実際に起きている時に、何かを呟くのは、誰もいない時ではない。必ずまわりに誰かがいる時だったということを今さらながらに自覚した。
その自覚は今までにはなかったもので、今回の恐怖を感じる夢を見ることで意識することができたのだ。
「誰かに聞いてもらいたいという意識があるからなのだろうか?」
と感じたが、一人で呟いている光景を思い出しながら、その時の自分の心境を考えると、誰もいないまわりの世界を意識していないつもりでも意識していたのだった。
まわりに誰もいないということを意識してしまうと、そこには無限に広がる世界を創造してしまう。無限に広がった世界を、どこか自分の中で制限してしまって、勝手な世界を作り上げる。
「虚空の世界を見たくないことで、まわりに誰かを意識する。それを確認したくて、呟くのではないだろうか」
しかし、一人でいる時も無限の世界を創造しながら、それを今度は意識しないように努力する。その意識がまわりに人がいる時にも働いて、自分の気配を消してしまうような作用があるのではないだろうか。
「石ころのようになってしまう」
というのも、そんな潜在意識の表れではないかと思うと、呟くくせもそれなりに納得がいくものだ。
恐怖が襲ってくると感じた時、耳鳴りが暗闇に響いている。
「何か衝動的な行動を起こしそうで恐ろしい」
そんな意識があった。
衝動的な行動が何を意味するのか分からないが、完全に暗闇に慣れてくると、夢の中で自分が誰かに殺されそうになったということを思い出した。
夢をいうのは潜在意識が見せるものなので、目が覚める時は、自分の意識が働く、
「怖い」
と思った瞬間、防衛本能とともに、目が覚めるのだ。だから殺されそうになったところから記憶はない。本当に夢の中で殺されてしまったのか、殺される前に目が覚めたのか、目が覚めてしまった以上、もう分からない。
「ジリリリン」
電話の音が鳴り響いている。最初ほどけたたましくないが、一度意識の中に取り込まれそうになったが、暗闇の中で意識がハッキリしてくると、音が今度は乾いた空間に響いているように聞こえた。
「完全に目が覚めてきたかな?」
時計を見ると、二時過ぎを差していた。いわゆる
「草木も眠る丑三つ時」
である。
「もしもし」
頭は重たかったが、重たさにも慣れてくると、身体が動かせるようになった。電話まで思ったよりも距離があり、湿気を帯びていると感じた空気を手で掻くようにして身体を動かした。
何とか受話器を取って、耳をあて、まず相手の息遣いを感じた。確かに相手の息遣いを感じる。自分の荒れている呼吸に合わせるかのような息遣いだったが、目立つものではなかった。酔いがまだまだ残っていて、恐怖を感じるような夢から目を覚ましたので、それだけ呼吸が荒いのは当たり前だった。だが、相手はそれと同じ呼吸だったのは、こちらの心境が相手にも微妙に影響しているのではないかと感じさせるほどだった。
「……」
だが、電話口からは息遣い以外には何も聞こえない。完全な無言電話だった。無言状態がどれほど続いたのか分からないが、まわりを支配している空気が重たくなってくるのは間違いのないことだった。
真っ暗な部屋にキラリと光るものを見つけた。ナイフである。
体調が悪いということで、果物でも食べようと、リンゴを切ってテーブルに放置したままのナイフが剥き身になって置かれていた。
何を思ったかそれを手にし、光っている面を鏡にして自分の顔を写す。
「これが本当に俺の顔なのか?」
独り言が静かな部屋に響くと、衝動的にナイフを胸に突き立てた。
「なぜそんなことをしなければいけないかって? それは自分を抹殺したいからさ」
誰に問うことでもないのに、勝手に聞いて勝手に答えている。
「苦しい。やはり死にたくない」
衝動的な行動はすぐに後悔を伴った。目の前にある電話を手に取り、百十九番を押す。救急車を呼ぶためだ。
「一気に死ねると思っていたのに、これじゃあ苦しいだけだ」
どうしても自分で自分を刺すと気持ちの中にためらいが残ってしまう。自殺を図ってしに切れないという話を聞くが、その方が苦しいことは分かっていたはずだ。やはり、衝動的な行動だったのだ。
呼び出し音が消えるのを確認し、声を出そうとするが、声を発することができない。すでに声が出ないほど苦しさが増してきていたのだ。
息遣いだけが受話器から発せられる。相手も何も話さない。聞き耳を立てているのか、どうしたのだろう?
じっと聞いていると、相手も息遣いが荒くなっていた。こちらの息遣いに相手も合わせている。
――本当に掛かっているのだろうか――
先ほどの無言電話を思い出していた。あれは本当に掛かってきた電話だったのだろうか?
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次