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短編集115(過去作品)

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 照れ笑いは今でも続いている。ぶつぶつ呟きながら仕事をしていることにあとで気付きまわりを見ると、誰もが何もなかったように仕事をしているのだ。
 最初の頃はチラッと、こちらを見る女子社員もいて、それに気付くと顔が真っ赤になってしまっていたものだった。だが、最近では、皆分かっているからだろうか。誰も意識していない。一人照れ笑いをしている自分に気付く。
「俺が呟いているのを感じたら、声を掛けてくれ」
 と言ってみても、きっと誰も何も言わないだろうと思っていたが、本当にまわりが意識しなくなっていたとは思わなかった。
「ねえ、先輩。皆それぞれ芸術に造詣が深いんだけど、もっといろいろ覚えたいって気分になっているんだと思うんですよ。俺もそうですしね。彼女もそうなんじゃないかって思うんですよ」
 男性の後輩がそういうと、
「そうなのよ。皆それぞれに何か尊敬できるところがあると思っていて、それがどこなのか分からないでいたんですけど、今日、それが分かって、親近感がさらに湧いてきた感じですね」
 と話している。
「芸術って、一人で孤独にやるものだと思っていたんですが、こうやって皆の話が聞けると、今までわだかまっていたものが解けそうな気もするんですよ。何か納得の行かないことがあっても、それがなんだか分からなかった。でも、それが壁だと分かる。考えてみれば、壁の存在なんて容易に分かりそうなものなのに、人に聞いて初めて分かるなんて、それだけ自分の世界に入り込んでいるんでしょうね」
「それはいえるだろうね」
「はい。だから、足し算の答えが単純に一つではないということですよ。ないものを補うのか、それとも、分かっているつもりだったことを確実のものにするのか、または、補って余りあるものがさらに大きなものになっていくか、いろいろですよね」
 話を聞いていると、新人の後輩だと思っていたが、考え方はしっかりしている。これも普段からいろいろと考えているからだろう。絶えず何かを考えているタイプなのではないだろうか。
「俺も実はよく独り言が多いって言われるんですよ」
「実は私もだったのよ」
 後輩二人も北野と同じことを言われていたのだろうか。
「でもですね。社会人になって、急に独り言がなくなったんです。自分で意識しているわけではないんですが、人から何も言われなくなったんですよ」
「学生時代は言われていたのかい?」
「いえ、学生時代は人から言われるというよりも、誰もが独り言を言っていたので、自分が意識しなくてもよかったんです。皆同じ趣味の人たちばかりで、集中しているとついつい呟いているみたいでですね」
「小説を書きながら呟いていると怖いものがあるね」
「それが違うんです。実際にアイデアが浮かんで書き始めると、誰もが寡黙になるんですよ。アイデアやストーリーを思い浮かべる時に、皆独り言が多くなるんですよ」
「どういうことだい?」
「原稿用紙に向って書き始める時というのは、すでに大きな仕事が終わっているとでも言うんでしょうか。あらすじができてしまえば、あとは組み立てていくだけですから、ある意味楽しいんですが、作業の感覚に近いですね」
「原稿用紙が埋まっていくという作業が一番楽しいように思えるけど?」
「そうですね。実際にこなしている量が分かるので、一番楽しいでしょうね。でも、一番の快感は、あらすじの最後が繋がった時ですね。まるでトンネルを掘っていて、反対側から掘ってきた穴と繋がった感覚ですね」
「頭から考えていくわけではないと思っていたけど、中学の頃に凝っていたジグソーパズルを思い出すよ」
「そうなんですよ。私も絵を描いている時。最初にまわりからせめていくことが多いので、その気持ちよく分かりますわ」
「絵を描くのは、ジグソーパズルの感覚に似ているのかな?」
「少し違うと思っていますけど、まずはバランスを考えることから最初にしますね。パズルの輪郭を作る感覚に似ているような気がするのは私だけでしょうか?」
「いやいや、小説を書き始める前の、プロット作成に似ているところがあるね」
「やっぱり、芸術は皆どこかで繋がっているんでしょうね」
「そのようだね」
「絵を描いている時に、ぶつぶつ呟くこともあったらしいんですが、それも私は高校の時まででした。短大に入っても絵を描き続けていたんですが、その時は、誰からも言われたこともないし、自分でも意識がありませんでしたね」
 やはり芸術に造詣の深い人には、呟くくせがあるようだ。
「でも、私は呟くことをやめたわけではないんですよ。まわりが意識をしていないというのと、自分にも意識がないだけだったんですよね。確かにその時、まわりをあまり意識しなくなったように思うんですが、まわりから自分の存在自体がまるで石ころのようだって言われたこともありましたね」
 という話が出たが、
「石ころというのは、僕も同じことを言われましたね」
 北野がまわりから、
「石ころのようだ」
 と言われたことはないが、北野がまわりを石ころのように感じたことはあった。
 すぐそばにあっても気付くこともなく、あって当たり前だという感覚が、いわゆる「石ころ」ではないだろうか。そして、満天の星の中で、一つくらい増えていても気付くわけでもないそんな存在、川原の石ころも同じではないだろうか。
 後輩たちから石ころの話が出てから、急に酔いが回ってきたようだ。
 あまり呑めないくせに、呑んでいる時はそれほど酔いを感じるわけではない。呑み終えて眠ってしまってから、夜目が覚めて、酔いが一気に頭を締め付ける。
「よほど鈍いのかも知れない」
 と感じたが、それだけに余計に呑んでいる時に自分をセーブしておかないと、後からどんなしっぺ返しを食らうか分からない。だから、
「アルコールはあまり強くない」
 と最初から宣言しておかないと、酒の量を自分で抑える自信がなかった。
 その日はそれほど呑んだわけではない。話が少し深く、自分の潜在意識に入り込む内容だったことで、却って
「セーブしなければ」
 と考えていた。だから、呑み方はいつもよりゆっくりだったはずだ。
 それでも一気に回ってきたということは、精神的にドキッとすることがあったからに違いない。シラフでも顔が真っ赤になってしまうような核心をつくような話がどこかにあったに違いない。
 だが、それがどの話だったか分からない。一たび酔いが回ってくると、それまでの記憶が次第に薄れてくる。まずは、話の時系列が分からなくなるのだ。
「今日はそろそろお開きにするか」
 時計を見ると、午後九時半を差していた。
「そうですね。またご一緒させてください
 後輩たちはそう言って、おのおの帰っていった。
 表に出ると夜風が気持ちいい。どこをどうやって歩いたのか、あまり記憶にはないが、ちゃんと帰り着いたのだけは分かっていた。
 記憶は断片的で、ハッキリ覚えているのは、部屋の扉を開いたところだった。間違いなく自分の部屋だった。
 だが、自分の部屋に帰りついた記憶の次によみがえるのは、表の夜風の気持ちよさである。
――時間的な記憶がバラバラだ――
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次