短編集115(過去作品)
最初は本部での型に嵌ったような仕事を自分ができるかどうか不安で、ストレスが溜まりはしないかと思っていた北野だったが、実際には取りこし苦労だった。
仕事をしてみると、結構興味深いところもあり、ずっと机に座っているだけではなく、いろいろな資料を書庫から取ってきて、自分なりに分析する。必要であれば、支店に出張に出かけて。支店の帳簿や伝票を繰ってみたりすることで、資料を少しずつ完成させる。
これこそコツコツこなすことが好きな北野にとっては、願ってもない仕事であることは疑いのない事実だろう。
支店にいけば気分転換にもなる。本部で仕事をしている時は相変わらずぶつぶつ呟いているが、集中しているせいか、なかなか自分では気付かない。
ハッとして気付いた時には、仕事は大体一段落している時が多く、それだけ集中している時はまわりが見えていない証拠である。
本当は社会人としてはいけないことなのかも知れない。だが、この仕事をしている分には問題ない。他の部署とはまったく違う仕事で、やっている人たちでないとまったく分からない仕事だ。そういう意味で、この部署に転属になってくる人は少なく、たまに営業から引き抜かれるくらいで、あとは新入社員が研修を終えて入ってくるのだった。
――現場の営業を知らずして、本当に大丈夫なんだろうか――
とも考えたが、現場の営業は先輩から受け継いだやり方を実践しているだけで、そこから問題点は浮き彫りになってこない。この部署は、数字を見つめることで、現状の営業活動の悪いところを見抜く部署でもあるので、現状に固まった考えを持っている人には勤まらないとも考えられる。営業社員がこの部署にいないことへの理解は、北野なりにできていたのだ。
仕事が一段落して、まわりを見ると、誰もぶつぶつ呟いている人はいない。
「よく、仕事ができるな」
自分中心に考えてしまうと、そう思えるのだが、黙々と仕事をしている姿は、まるで自分の気配を消しているかのように見える。
集中していると、それだけ目先のことに捉われてしまうのだろうが、
「その歯止めに呟いているのかも知れない」
と思っていると、自分の方がまともで、黙々と仕事をこなしている他の人が変に見えてくる。
集中するためには寡黙にならなければいけないという考えでもあるのだろうか。それとも学生時代に培われた経験なのだろうか。少なくとも寡黙に勉強していては、却って気が散って集中できなかった学生時代を過ごしていた北野には、想像できるものではなかった。
あまり深く入り込むこともなく、
「広く浅く」
がモットーだった学生時代。いくら浅くがモットーだといえ、自分なりに理解していたものはあったはずだ。自分で浅いと思っていることでも、実際にはしっかりとした理解があっただろう。
それも学生時代に培われた自分の性格である。半分は本能のようなものだったかも知れない。それを思い出すと、ぶつぶつ呟いているのは、浅い中でも深く自分に言い聞かせようとしている無意識の行動なのだと思えてきた。
寡黙に仕事をしていると、存在感が薄れてくるものかと思っていると、却って気になってしまって目立っているようだ。それだけまわりにオーラを示しているのだろうが、それを感じ取るのは、相手を意識していてこそではないだろうか。相手を意識せずして、オーラを感じることなどできないと思うのは北野だけではあるまい。
仕事をしていると、そのうちにまわりへの感覚が麻痺してくるのを感じる。
相変わらずぶつぶつ呟いているのをあとになって感じるのだが、あとになって感じる時に限って、まわりを意識しないようになってくるのだった。
それだけ集中していればいいのだが、どうも違うようだ。自分ひとりが宙に浮いていて、別の世界にいるかのような感覚だった。
ある日、後輩から、
「北野先輩は、最近あまり呟くことがなくなりましたね」
と言われるようになった。
「そんなことはないんだが」
という言葉が口から出掛かって、いうのをやめたのだが、元々呟いている自分が気になっていたので、後輩に、
「俺が呟いているのを感じたら、声を掛けてくれ」
と話していた。
なかなか呟いていると後輩から指摘されることはなかったので、
「遠慮しているのかな?」
と思っていたが、そうではないらしい。実際に呟いていないから、指摘のしようもないということなのだろう。
自覚症状があるのに、どうしてまわりには分からないのだろう。
やはり別世界にいるような感覚になっていると感じているのが、まんざらでもないということなのだろうか。北野には分からなかったが、それ以上にまわりの人間に分かるはずもない。
「おい、今日は呑みに行こうか」
後輩を誘って呑みに行った。あまり人と呑むこともなければ、後輩を誘うなどあまり考えたこともなかった。
後輩も一瞬戸惑っていたが、断る理由もないということなのだろう。
「はい、ご一緒しましょう」
男女一人ずつの後輩に声を掛けた。
直属の部下で、彼らはまだ二年目くらいの新人と言ってもいいくらいだった。
呑みに行って、最初は仕事の話をしていたが、そのうちに酔いが回ってくると、趣味の話に変わってくる。
北野はアルコールが強い方ではない。後輩二人も同じらしく、ペースもほろ酔い具合も、非常に似ていたのは、幸いだったのだろう。それだけでも、
「いい酒になるな」
と感じされるに十分だった。
ほろ酔い気分になると、仕事の話は必要なかった。
「私は写真が好きでね」
ほろ酔い気分になると、紳士になった気分がしてきて、会話も紳士的になる。それは彼らも同じで、どこか同じようなところがあるから、同じ部署に配属されたと考えると、無理なく接することができる。膝を突き合わせて呑むにはちょうどいい時期なのかも知れない。
「先輩は写真ですか。僕は小説を書くのが好きでしてね」
と後輩の男性がいうと、今度は女性の後輩が、
「あら、私は絵を描いていたのよ」
と目を輝かせていた。皆それぞれ芸術に造詣が深く、初めてここで告白したのだが、考えてみれば仕事をしながらでも、それぞれに、何かしら一目置いているところがあったのも納得いくというものである。
芸術をしている人間は、芸術的な人間を見つめる目はどこか違うものである。考え方が素振りに出たり、会話に出たりするもので、さすがに仕事をしている時は仕事の話しかしないので、会話で分かることはないが、素振りやセンスで、どこか垢抜けているところがあったり、玄人うけする発想があったりと、言い方は悪いが、
「可愛げのない」
といった考えが見え隠れしていたものだ。
可愛げがないという感覚が本人にあるのだろうか。それを感じた時、本人も照れ笑いを浮かべることがある。本人とすれば、
「やりすぎたかな?」
と感じるところがあるのだろう。決して悪いことではないが、出しゃばった感覚になっているのかも知れない。
北野の新入社員時代もそうだったのだろう。先輩への遠慮とは別に、気がつけば出しゃばってしまっていた自分に気付き、照れ笑いを浮かべていた。
作品名:短編集115(過去作品) 作家名:森本晃次