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十五年目の真実

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 と言っているが、残念ながら、いつも第一次審査で落選ばかりを繰り返していた。
 それでも彼は書き続ける。
「とりあえず、書き続けられれば、それだけでいい」
 と言っている。
 彼の書く小説はやはり好きなだけあって、一番読み漁ったミステリーである。ミステリ0であれば西村も好きなので、彼が書いた小説を読ましてもらったことも何度かあった。ただ、応募前の作品は恥ずかしいのか、落選した後で読ませてもらうのだが、やはり、
「一次審査で落選した作品」
 という目で見るからか、本来の小説の面白さに気付いていないような気がした。
 たまに、その話の続編というか、二次創作のような話を西村は書いたりしている、それを友達に見せると、
「なかなか面白いじゃないか、これだったら俺よりもお前の方が賞を取るのは近いカモ知れないぞ」
 と言ってくれるが、
「いやいや、俺のは、お前の小説という土台があっての、二次創作だ。一種の盗作のようなものだ」
 と言ったが、まさにその通りだった。
 友達もそれを分かっているから、それ以上は何も言わない。やはりオマージュやリスペクトと言っても、元は人の作品。盗作でしかないのだろう。
「最近は、スピンオフとか言って、有料テレビの方で、ドラマのサイドストーリーのようなものが流行っているけど、見たことあるかい?」
 と友達から聞かれて、
「いいや、ないよ。僕は本筋の話が好きなものは、サイドストーリーには見向きもしたくないんだ。せっかくの作品の質を落とすことにならないかと思ってね」
 というと、
「いや、それこそ人それぞれの見解があるよね。実は僕もあまりサイドストーリーというか、チェーンストーリーはあまり好きではないんだ」
 というではないか。
「お前、やっぱり書いた方がいいぞ」
 と続けて友達が発言すると、
「そうなのかな?」
 とその気になっている西村だった。
 だが、さすがにミステリーを書いてみるだけの力はなかった。なぜなのかは自分でも分かっているつもりでいた。
 それが、
「リアルと小説の間にあるギャップとずれ」
 であった。

                  ミステリーと現実

 確かに、小説にはあるが、現実にはあり得ないもの、逆に現実にはあるが、小説として描かれないもの、両方が存在している気がする。それがリアルと小説の間にある壁のようなもので、どちらも譲れないものが存在しているのではないか。しかも、それぞれ、どちらかにしかないものというのが思ったよりも多いような気がする。やはり現実的なギャップと、理想のずれが生じているのではないだろうか。
 現実にはあるが、小説にはないもの。それはそのズバリ、
「小説としては、面白くないもの」
 というものではないか。
 トリックもなければ、謎解きもない。そして、猟奇的でもなければ、ストーリー性もない。下手をすれば、衝動的な殺人などがその一つなのかも知れないが、逆にこれを人間ドラマとして描くのであれば、ありなのだろう。
 ヒューマンドキュメンタリーのような話であれば、十分に、
「面白い小説」 
になりうる可能性はある。謎解き、トリックではなく、その人が逮捕された後の信条や裁判などを記録したかのような話に、例えば犯人や被害者の過去にどんなものがあったのかという話を織り交ぜることで、精神的な物語が形成されていく。
 そんな話であればありえるものだと思うが、これが果たしてミステリーと言えるものなのかと考える。
 広義の意味でいけば、ミステリーなのだろうが、西村の中にあるミステリー感というものとは若干違っている。だから、現実にはありが、小説にはないと思っている。
 だが、実際に起こる事件には、こういう事件の方が多いのかも知れない。動機はしったりしているが、本当に相手を殺そうとまで思ったのかどうか、深層心理を描き出すことで、裁判がいかに進んで行くかという話である。その人の人間性がクローズアップされる話となるだろう。
 逆に、
「小説はあるが、現実にはないような話」
 というのも存在する。
 この場合は、ミステリー―小説としては、トリックや謎解き満載で、逆にトリックがバレてしまうと、その話は終わってしまうとまで言える話だったりする。それだけに書いている方も難しいが、読む方も心構えが必要になるだろう。
 書く方とすれば、叙述トリックのように、読者を導くような手法も必要になってくる。何しろ、トリックとして最後まで読者に看破されず。そらには、犯人が誰かということも最後まで分かってはいけないものである。
 たとえば、
「交換殺人」
 などがそうではないだろうか。
 誰かを殺したいと思ってはいるが、あまりにも動機がハッキリしているため、少々のトリックでは、自分が最後まで重要容疑者であり、そのまま犯人として挙げられるか、あるいは、警察が事件を看破できずに迷宮入りになるかのどちらかである立場に自分がいるとすると、自分が安全で相手が死んでくれるとすると、自分に鉄壁のアリバイがなければ難しいだろう。
 それはきっと、共犯者がいて、その人が犯罪を実行してくれなければ、ありえないことであろう。しかし、相手に何かの見返りがなければ、相手も動いてはくれない。そこで考えられるのが、
「交換殺人」
 というものだ。
 この交換殺人というのは、まったく利害関係のない。会ったこともない相手を殺す実行犯になるということで、その見返りに自分が殺してほしい人を相手に殺してもらうというものだった。
 これは共犯であって、共犯でない。自分が主犯であり、別の事件での実行犯としての共犯、そう、一種の、
「一人二役トリック」
 のようなものである。
 一人二役というトリックは、他のトリックとは違い、
「トリックを最後の最後までバレてはいけない」
 というものである。
 一人二役がバレてしまうと、それまで点と点でしかなかった犯罪がすべて繋がってきて、白日の下、分からなかったことが一気に氷塊し、事件解決へと向かう。つまり一人二役がバレた瞬間、事件は解決したも同然なのだ。
 そういう意味で行けば、交換殺人も同じである。
「これが交換殺人だ」
 ということが分かれば、事件は急転直下となるだろう。
 ただ、立件するための証拠があるかないかは別問題なので、すべてが解決というわけにはいかないだろうが、少なくとも理論上の犯罪のすべてが明るみにでると言ってもいいだろう。
 だが、これほど危険で偶然が重なった状況はなければいけない犯罪もない。
 何といっても、自分と同じように誰かを殺したい。殺さなければ、自分の将来は水泡に帰すというような人が、うまい具合に見つかるかどうかだ。
 しかも、その相手と自分とは利害という意味であっても、知り合いであるとことを誰にも知られてはいけない。最初から完全犯罪でなければいけないのだ。
 危険だというのは、交換殺人というものが殺したい相手がいて、もう一人の共犯に、確実に実行犯になってもらい、その間に自分は完璧なアリバイを作る必要がある。死体が発見冴えて警察が捜査に乗り出した場合、まず最初には、彼の交友関係や親族から、
「動機のある人間」
 をピックアップし、その人のアリバイを探るだろう。
作品名:十五年目の真実 作家名:森本晃次