小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

十五年目の真実

INDEX|5ページ/27ページ|

次のページ前のページ
 

 まずは、とにかく警察に知らせなければならない。その時に思ったのは、
「どうしてここにいたのかを、どう説明しようか?」
 という思いであった。
「まさかとは思うが、母親の不倫を説明しなければいけないような状態になればどうしよう?」
 という思いが頭を巡った。
 当然そんな必要はないだろうとは思ったが、その時西村はなぜか余計なことばかり感じている自分がいることに気づいていた。
――何をそんなに怯えなければいけないんだ?
 という思いがあり、すぐには警察へ通報できなかったが。ここで通報しないという選択肢はない。死体を発見しながらそれを見逃すということはありえないと思ったからだ。
 そのうちにこの死体は近い将来発見される。その時に鑑識が、現場を捜索するだろう。そうすれば死体のそばに西村自身の痕跡が残っているかも知れず、それが発見されればどうなるか?
 一番怖いのは、自分が一番の容疑者候補になってしまうことだった。日本の警察は優秀なので、自分の身元が分かるのも時間の問題だろう。それにどこに防犯カメラがあるか分からないし、自分の姿をどこかで誰かが見ていないとも限らないではないか。そんな風にいろいろと考えていると、自分が第一発見者として名乗り出ないと、どう考えても自分が不利になることは分かっている。
 倒れた自転車を起こして、とりあえず警察に電話し、近くの交番から警官が来るので、それまで待っているように指示されたが、そのうちに頭が少しずつ落ち着いてくるのを西村は感じていた。
 目の前で死んでいる男の姿を見ているうちに、何か滑稽なものがそこに転がっているという意識が強くなっていた。怖いという感覚よりも、
「何か不思議な物体」
 というイメージが強く、それも滑稽に見える。
 男はガニ股であり、腕も左右バランスが明らかに悪い恰好であった。動いている姿をランダムに激写した時だって、もう少し綺麗に見えるというものだ。それはきっと、、見えているものが動いているか、静止しているかの違いから来るものであろう。明らかに動いていないその物体からは、精気を感じることはできず。その恰好がそのまま滑稽に見せているに違いない。
 見えている姿は、足をこちらに向けているから不細工に見えて、それを滑稽に感じるのだと思ったが。頭がこっちを向いていたとしても、同じように滑稽に見えただろう。滑稽に見えてしまったということを正当化しようとして、いろいろ頭の中に思いを巡らせているのではないかと思うのだった。
 先ほどから、何とか目の前で起きている事実を夢の世界だと思い込みたいという思いでいることを、西村は、
「正当化させたい」
 と思っているからだと感じていた。
 中学生になってから、特にそう思うようになっていた。それはきっと持って生まれた感情からなのだろうが、それを最初に意識させたのは、友達の家に遊びに行って、親から強引に帰ってこいと言われた時のことだったように思う。
「どうしてこの俺だけが」
 という思いが強く。確かに他の人は皆泊っていいと言われているのに、自分だけ帰ってこいなどというのは、これ以上恰好の悪いものはない。
 確かに父親の言うことも分からなくもない。せっかく家族団らんの正月を邪魔しようというのだから、いくら皆が賛成しても、自分だけは確固とした反対意見を持っていてもいいだろう。きっと父親なら無碍もなく帰ってくることを選ぶのだろうが、いくら息子とはいえ、それを強制するだけのものはあるのだろうか。
「俺が親になったら、絶対にこんなことはしない」
 と心にも決めた。
 そして、自分が親になれば、きっと息子が友達の家に泊ってくると言えば、止めるようなことはしないだろう。もししてしまうと、自分の意志に逆らうことで、正当性もあったものではないと思うからだった。
 だが、自分が大人になっても、友達の親のようにはなれないと思った。正月は家族で過ごすなどということにこだわりはしないが、子供が友達を呼ぶといえば、そこは反対する気がする。
 子供の友達と一緒に遊ぶということまではしないだろうが、それ以前に、正月には何かやりたいことがあるような気がしていたからだ。
 それが家族と一緒ではできないことであっても、自分は自分の信念を貫く気がする。その時ひょっとすると、
「父親の威厳」
 を発揮するかも知れないと思ったが、それは中学生の時に感じている今の思いとは違うものだと考えるのは、身勝手な考えであろうか。
 家族をどのように扱うかというのは大人になってからの問題だ。そのことを感じると我に返って、目の前の死体がまったく動かないことをいまさらながらに気持ち悪く感じさせられた。
「こんなにも、死体って動かないんだ」
 風が吹いても、きっと動かないような気がする。
 死後硬直という言葉もあれば、その様子は、小学生の頃に亡くなった祖母を見て分かった気がした。
――あそこまで冷たく、そして硬くなってしまうのだということを自分は小学生の頃に知ったんだ――
 という思いがあり、中学生の今でも思い出すことができるのは、そのイメージがセンセーショナルだったからだろう。
 硬直していく身体というのは、見た目では分からない。
 死んだ瞬間から顔色は明らかに青ざめていき、あっという間に土色になっていった気がした。
 だが、身体が固まるまでには少し時間がかかったかのように思う。
「死後硬直」
 などという言葉も知らなかった頃で、本など読んだこともなく、ミステリーが好きな今では常識のように感じられることも、まったく知らなかった頃だった。
 だから、ミステリーを読んで、人が死んでからの様子を描写しているシーンで想像するのは、祖母が亡くなった時のことだった。
「結局、人間は最後、焼かれて骨になるんだよね。死んで土に返るなんて言葉があるけど、まさにその通りなのかも知れないな」
 と、祖母が火葬されている時に、誰かが話しているのが聞こえてきた。
「私たちも他人ごとではなく、もうすぐ自分たちもあの運命なのよ」
 と言っているのは、祖母が生前仲良くしていた、おばあさん連中だった。
 その言葉を聞いて、リアルに聞こえたのは、少し寂しかった。もちろん、その言葉通りなのだろうが、
――もう少し言葉を選べないのかな?
 と感じたのは、他にも似たような立場の人がいて、その言葉をどう感じたのかと思ったからだ、
「そんなことは百も承知だ。そんなことを今口に出してどうするっていうんだ。静かに故人を贈ってやればいいものを」
 と思っていたのかも知れないし、
「あんたらと一緒にするんじゃない。俺たちはもっともっと生きるんだ」
 と、生きることに一生懸命になっている人もいたかも知れない。
 ただ、どちらの相手に対しても、分かり切っていることを口にしてロクなことはないだろう。それこそ、正当性に欠けるというものだ。
 人間が最後は誰でも死を迎えるというのは平等であるが、それがいつ迎えるかはその人それぞれで違う。そうであれば、迎えた時、それぞれの人が少しでも平等であってほしいと思うのは、生きているからではないだろうか。
作品名:十五年目の真実 作家名:森本晃次