短編集114(過去作品)
コーヒーの香り
コーヒーの香り
最近は、三十歳を越えても結婚しない人が増えてきている。男性、女性を問わずに増えてきているので、どちらかがあぶれてしまうということはないかも知れない。
「結婚に夢がもてなくなってしまった」
と言ってしまえばそれまでだが、結婚だけが人生ではあるまいし、実際に毎日のように芸能界などでは離婚の話題が芸能ニュースを賑わしているので、今さら誰が離婚しようが驚くこともない。
気ままな生活といえば恰好いいが、実際には寂しさを押し殺して、自分すらも押し殺して暮らしている人も少なくはないだろう。結婚しない女性はキャリアウーマンとして強く生きていく覚悟を決めている人であればいいのだが、なかなかそこまで自分を分析できる人も少ないに違いない。
山中律子も、「結婚しない女性」の一人だ。今年で三十五歳、気がつけばずっと一人だった。仕事はそれなりに充実しているので、時間が経つのも早い。
「いいことなのか、悪いことなのか」
時々時間が経つのが早いことに疑問を感じることもあった。
三十歳まではそれほどでもなかったのに、三十歳を過ぎるとあっという間である。三十歳という意識は誕生日が近づいてから感じ始めたわけではない。三十歳の誕生日を迎えるその年の正月に感じ始めた。律子の誕生日は十月である。正月から数えると、かなりの日数だ。年明けから誕生日まで想像していたよりもあっという間に過ぎてしまって、覚悟をする前に誕生日を迎えてしまったというのが本音である。
「時間は待ってくれないんだ」
と真剣に感じた時だった。
短大を卒業する時も同じような感覚だった。
就職は何とか決まっていたが、学生時代とまったく違う社会人の世界。想像するのも怖いくらい、少し臆病になっていた。
まわりの人は覚悟ができているのか、誰も社会人になってからの話をしようとしない。だが、今から考えれば誰もができているわけではない覚悟だったので、敢えてその話題に触れようとしなかったのではないか。臆病になっていた律子にまわりの人の考えが見えるわけもなかった。
あまり友達がたくさんいる律子ではなかった。たくさんの友達を作るよりも、本当に親しい友達が二、三人でもいれば、お互いに信頼し合える関係を築くことができると考えていた。そしてその考えに間違いはなかった。
二十歳代までは身体が丈夫な方だと思っていた。病気はおとか、風邪一つ引いたこともなく、会社を休むなどなかったくらいだ。
仕事はコンピュータ会社の事務をしている。プログラマーばかりがいる会社で、プログラマーも現場に詰めている人がいるので、事務所は閑散としている。もっとも、人がいても寡黙な仕事なので、あまり活気があるわけではない。仕切り板で区切られたスペースに一人一人のデスクとパソコンが配置してあり、まるで、部屋全体が迷路のようだ。
聞こえるのは機会音と空調の音くらい。話し声はまず聞こえない。話をしたり喫煙をする部屋は別に設けられているが、喫煙に出てくる人も寡黙で、誰も自分から話しかけようとしない。そんな事務所にいると、時々息が詰まることもあった。
律子自身も、学生時代は情報処理の専門学校を卒業している。ソフトを組むことはできるが、ここにいる専門で従事している人たちに比べれば、そんなことを大きな声で言えるはずもない。
ただ、事務の仕事も楽しいものだ。目の前にある仕事を一つずつこなしていくことも悪くはない。元々はモノを作るのが好きで入ったコンピュータ会社だが。プログラマーの生気のない皆一様に暗い表情を見ていると、事務の仕事の方が自分に向いているように思えてくる。
入社してすぐは、なかなか時間が過ぎてくれずに辛かった。どんな仕事でも同じであろうが、仕事を覚えるまでは自分が何をしているか分からずに、自分の居場所すらハッキリしていないような錯覚に陥ったりする。何をしたいのかが分からないということがこれほど辛いとは思わなかった時期すらあった。
やらなければいけない仕事はたくさんあった。会社でいう、総務・経理といった管理部関係の仕事のほとんどに関わっている。小口現金を扱ったり、銀行との窓口になったり、おおよそ学生時代に目指していた仕事ではないが、やっているとななかな面白い。
「私がいなければ、何もまわらないんだ」
とすら思っていた。
実際にそうだった。
プログラマーのスケジュール管理までしていたので、律子がいなければ、彼らは自分ひとりでは何もできない。そう思うと、ある種の快感があった。
上司の中には、
「君を女性にしておくのはもったいないくらいだ」
女性蔑視にも聞こえる表現だが、律子は素直に嬉しかった。あまり細かいことを気にせずに、素直に相手の言葉を喜ぶところは律子のいいところである。前向きな考え方の持ち主だというところが、男性っぽい性格なのかも知れない。
そんな律子が気になっている男性がいた。
彼は同期入社のプログラマーだが、目立たない職場の中でも、さらに目立たない。呑み会などがあっても、積極的に人に話しかけることはまずなく、話しかけられたことに対しても、どこか億劫に受け答えしていた。そんな男をそのうちに誰も相手にしなくなる。当然、まわりとの距離は離れていって、孤独に見えた。
だが、実際本人はサバサバしたものだった。
「俺は一人でもいいんだよ。元々この仕事って、一匹狼的なところがあるだろう? 自分でも分かっていて仕事しているさ」
開き直っているわけではなく、それが本心だと思ったのは、彼には趣味があるからだった。
休みの日には登山をしたりしているらしい。もちろん、まとめて休みが取れるわけでもないので、近くの山に日帰りになるらしいが、登山仲間もいたりして、時々メール交換などをして、交流を深めているようだ。
一度彼に登山に誘われたことがあった。
「私、登山なんてしたことがないわ」
「大丈夫だよ。遠足みたいなものだから」
「それじゃあ」
ということで、ちょうど時間も空いていたし、断る理由もないことから付き合ってみることにした。彼の喜びようは想像以上だった。きっと断られるに違いないと思っていたことだろう。律子自身もなぜその時にOKしたのか、後になっても分からなかった。
――私が気になっていたからかしらね――
後になって思うのはそれくらいだったが、一緒に登山に行ってから、お互いに距離が近づいていったわけではない。だが、次第に律子の方が意識し始めたのだ。
学生時代に男性と付き合ったことがないではないが、まだ二十歳にもなっていなかった頃、ボーイフレンド程度の軽い付き合いだった。
たくさんの男性に出会って、たくさん男性と付き合ってみたいという考えがあった頃がすでに懐かしいと思えるようになっていた。年齢を重ねたというべきであろうか、それとも社会人になって、少し変わってしまったというべきだろうか。そのどちらも少しずつ影響しているに違いない。
彼は積極的にも見えるが、どちらかというと、仕事においても冷静沈着な方だ。あまり表情を変えることがなくポーカーフェイスに仕事をしている。それに律子と一緒にいる時でも、あまり表情を変えることはない。
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次