短編集114(過去作品)
「というと?」
「上り坂というのは結構運転していると気付かないものですよね。アクセルを普通に踏んでいるつもりでも、思ったよりスピードは出ていない。そこから車が詰まってくるらしいんですよ」
「そういえば、トンネルの前から渋滞が広がるっていう話、聞いたことがありましたね」
と自分で言って、思わずハッとした。
――トンネル――
またしても、父親を思い出させる言葉である。
「そうでしょう。だから、何かが始まるとしても、そこには何らかの根拠というのがあると思うの」
ママさんはなかなかの博識家のようだ。
「宇宙にしてもそうですよね。どこまで行っても果てがないと思っているけど、理論的には果てを計算することができるって話聞いたことがありましたね」
「宇宙の話はあまりにも壮大ですごいんですけど、果てがないといえば、鏡がそうだと思うんですよ。自分の左右に鏡を置くと、その姿は相手の鏡に写り、またそれが反対側の鏡に写る。果てしないですよね」
「少しずつ大きさは小さくなっていくけど、絶対になくなることはないんですよね。そのあたりも面白いです」
話は白熱していた。
「私は人間にも同じことが言えると思うんですよ。誰でも意味を持って生きているって思いたいですよね。私にもあなたにも意味があるんだって感じたいんです」
初めての客を相手にここまで白熱して話ができるのは、ママさんの性格だろうか。それとも何か心に期すものがあって、誰かに話を聞いてもらいたいと思っているのだろうか、どちらにしても、興味深い話である。
ママさんの話をもっと聞いてみたかった。
「以前、私の友達がマンションを買ったので遊びに来ないかって誘ってくれたことがあったんです。ここで店を開く前は、新宿のバーに勤めていたので、その時のお友達だったんですよ。その人はあまり野心のある人ではなく、いつも一人でいるのが似合っている人で、まるで私とは大違いだったんです。でも妙に気が合ってしまって、休みの時には一緒にショッピングに行ったりしていたんですよ」
少し話の内容が変わってきた。壮大な話から俗っぽい話になってきたのだが、却って新鮮味を感じる。相手の性格や気持ちを思い計るには、やはり身近な話からに限るからである。緒方は黙って頷いた。
「私は彼女に比べてどちらかというと夢を強く持っている方だったので、こうやって店を開くことができたんだけど、彼女は店を開くなんて大それたことを考えるような人じゃなかったの。でも、些細なことに幸せを感じるような人で、マンションを購入した時も、自分の一つの目標が叶ったことを、とっても喜んでいたわ」
「気持ちはよく分かりますね。我々サラリーマンは所詮、どこまで行っても、些細な幸せしか掴むことができない。もっとも何が幸せなのかなんて、分かるはずもないのが現状ですけどね」
苦笑いをしながら話したが、
「すみません、話の腰を折っちゃって」
心のどこかでママさんの話に引き込まれてしまう自分が癪だったのかも知れない。
緒方にはそんなところがあった。普段は黙って人の話を聞いているだけでもいいのだが、時々、自分の存在がその場から消されてしまうことへの違和感があった。恐怖感に近いものだといっても過言ではない。暗所恐怖症の時と似た感覚であった。
「いいえ、いいんですよ。私も話し始めると、我を忘れてしまう悪いくせがありますからね。たまに諌めてくれる方がちょうどいいんです」
一呼吸をついて、彼女は話を続けた。
「そのマンションなんですけど、高級住宅街から少し離れたところに建っていて、マンションも高級なんです。小高い丘の上に建設されていて、景色が綺麗だって自慢していました。バスで行くんですけど、マンションの前まではバスは行っていなくて、バスどおりかららせん状になった道を歩いて上って行くんですね。最初、彼女から坂がきついという話は聞いていたので、覚悟はしていたんですが、さすがにバスを降りてから見た坂の勾配は思っていたよりも急でした」
緒方も小学校と中学が山の上にあったので、急勾配の坂は想像がつく。子供の頃からずっと坂を上っていた坂なので、今ではあまり違和感がないが、普段あまり坂を使わない人は、まず道を見てから立ち止まるのは必至である。
「坂道はあまり経験ないんですか?」
「そうですね、ずっと平地に住んでいましたし、登山でもないと坂を上ることはありませんからね」
と彼女は話した。さらに話は続く。
「坂を上り詰め、下を見ると、思っていたよりもさらに夜景が綺麗でした。上ってきてよかったと思えた瞬間でしたね。ちょうど心地よい風も吹いてきて、しばしその場で夜景を見ていたかったくらいですよ」
「そのまますぐにマンションに入ったんですか?」
「いえ、やはり汗が乾くまで、夜景を見ていましたね。点々とした明かりを見ていたんですが、ゆっくりと点滅しているようにも見えました。よく星がまたたくっていうことを聞くので空を見上げますと、その日はとても星がたくさん出ていて、一番明るく光っている星が本当にまたたいていたんですよ」
田舎で育ったこともある緒方には容易に想像がついた。小さい頃の思い出が話を聞いてくるうちによみがえってきそうである。
「坂道を登りきって下を見た時間は、それほど長くはなかったと思うんですが、目指すマンションがもうすぐ目の前だという気持ちがあったからでしょうね。呼吸をここで整えておこうと思ったんです」
「そうですね。僕でもきっとそうするでしょうね」
相槌を打つと、ママさんは心なしか微笑んだ。
それを見た時、少しドキッとした。まるで心の中を見透かされているように思えたからだ。
――裸を見られたような恥ずかしさというのは、こういうのをいうのだろうか――
女性に対して、ふいに裸を見られるようなことは、今までに一度もなかった。中学、高校時代という思春期には、
――いつか見られるかも知れない――
という漠然とした意識があって、ドキドキしていたことがあった。それはまるで見られるのを楽しみにしているような心地よい緊張感だった。そんな感情を持つこと自体が恥ずかしいことで、誰にも悟られないようにしなければならなかった。
思春期には、得てしてそんな感情になることがある。恥ずかしいと思うことでも、心のどこかで期待してしまう自分がいるのだ。
小学生の頃、好きな女の子がいた。まだまだ女性に興味を持つなんて考えられない時である。三年生になったくらいの頃だっただろうか。従兄弟の女の子が遊びに来たことがあった。
まだ田舎に住んでいる頃で、女の子は都会からやってきていた。田舎で暮らしたことのないその子は、田舎の生活が楽しかったのだろう。
夏休みを利用してだったので、一ヶ月近くはいただろう。女の子と言ってもまだ小学生の低学年。おかっぱにしていれば、男の子にも見える年代である。
一緒に遊ぶのも男の子の遊びが多かった。いつも泥んこになって遊んだものだ。その女の子も、
「お兄ちゃん」
と呼んで緒方を慕ってくれていた。緒方もそれが嬉しくて、本当のお兄ちゃんになったように思っていた。
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次