短編集114(過去作品)
社会人になってから、こんな気分になったのは久しぶりだ。無駄な時間を使いたくないことから、じっと相手に合わせることを嫌っていた緒方だったが、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことができるのは、それだけ気持ちに余裕があるからなのかも知れない。
「ところで」
ママさんが頭を上げて話し掛けてきた。ボンヤリと呑んでいたらビックリするのだろうが、話しかけられる雰囲気を感じていたこともあって、別に驚きはなかった。静かな部屋にママの透き通るような声が糸を引くように響いたのだけは分かっていた。
最初の言葉から一瞬間があったが、
「お客さんは、タマゴが先かニワトリが先かということわざを聞いたことがありますか?」
初めての客に対しての話題にしては、あまりにも唐突だったが、この話題に関しては、時々考えることだったので、
「ええ、ありますよ。結論を考えると、夜も眠れないお話ですよね」
「このお話をされていたお客さんがいまして、そのお話がずっと頭から離れませんのよ」
ママは苦笑している。
「それはいつ聞いたお話なんですか?」
「二、三日前に来られたお客さんが、ちょうど、お客さんの席に座っていたお人と、そのお隣に座っていたもう一人のお方がお話をされていたんですよ。そのお二人はたまに来られるお客様で、いつも二人でお話をされていますね」
そう言って緒方の座っている席を指差した。
「いつもそんな難しいお話をされているお二人なんですか?」
「そんなことはないんですよ。お話の内容はプライベートなことが多かったようなので、なるべく聞かないように心がけていたんですけどね。特に一人の男性のお話をされていることが多かったように思います」
「すると、二人は同じ環境でいつも過ごしている人なのかな?」
「いえ、そうでもないようなんですよ。この店に来る時もお互いにバラバラに来られますし、お互いを見かけると、久しぶりって言って挨拶をしているところを見ると、同じ環境で過ごしている二人には思えませんね」
少し興味深い話だった。普段から一緒にいるわけではない人たちが、スナックで待ち合わせて話をするのは不思議のないことだが、そこに一人の男性の話題が持ち上がり、いつもその話題だというのも面白い。
緒方は話題に上った男も気になるが、店に来ている二人がどんな顔をしているのか想像してみると、不思議とハッキリ思い浮かべることができた。
一人は自分の父親の若い頃に似ているのではないかと思う。根拠はないが、数年前に亡くなった父親の遺品を整理している時に見つけた写真の中にスナックで笑っている姿が写っていた。
「確か、親父は酒が呑めないんじゃなかったかな?」
すると母親が、
「若い頃には呑めないまでも、馴染みのスナックがあったらしいのよ。呑めなくてもお湯割りの焼酎なら、いくらでも薄くできるって、笑っていたっけ」
と笑いながら、父親の写真を懐かしそうに眺めていた。
ママさんの顔はにこやかだが、聞いている話は真面目である。
「そうですね。どちらが先かと言われると難しいですね。タマゴがなければ生まれてこずに、大人になれず子供もできない。親がいなければ子供は生まれませんからね」
「お客さんは、お盆や正月に車に乗っていて渋滞に巻き込まれたことはありますか?」
「ええ、ありますよ。帰省というわけではなかったですが、子供の頃に初詣に車で出かけたことがあったんです。その時にまったく動かない車に閉口しましたね。途中でトイレには行きたくなるし、抜け道があるわけではないし、それは大変な思いをしました」
父親の顔が思い出される。助手席に乗っていた緒方は、父親の横顔を覗いていたが、いつ怒り出すかと思ってハラハラしていた。首筋にうっすらと汗を掻いていて、頬が真っ赤になってくるのを感じていた。ハンドルを握る手が震えていたが、あれはイライラから来ていたのか、自分と同じようにトイレを我慢していたのかは分からない。ただ、後ろの席でじっと何も言わずに座っていた母親を見ていて、
――我慢強いな――
と感じたのは事実だった。誰も喋らない中、不穏な空気が漂っていた車内は、今から思い出しても、
――もう二度とあんな思いはしたくない――
と思うほどだった。
そういえば、今でもその時の夢を見る。
閉所が嫌いになったのは、それから後だったのか前だったのか、今となっては思い出せない。だが、曖昧なだけにその頃だったように思えて仕方がない。
父親が運転しているところを思い出すのは、渋滞に巻き込まれた時だけではない。それよりもトンネルの中に入り込んで運転している父親の横顔の方が思い出すことが多い。
黄色いハロゲンランプが微妙に車内に注ぎ込み、見つめる父親の首筋が黄色くなっている。
思わず自分の指先を見つめると、同じように黄色くなっているのだが、再度父親の首筋を見つめると、まわりはまだトンネルの中だというのに、今度は真っ赤になっている。そんなことは夢の中でしか思い浮かぶはずのないことである。それに気付くことで、夢だと自覚することができるのだった。
そんな父親が死んだのは五年前、まだ緒方は学生だった。大学で勉強よりも友達付き合いが楽しかった頃で、甘えも十分に合った頃である。
初めての肉親の死、葬儀にも行くことがなかった自分の父親が死んでしまうなど、想像もしていなかっただけに、最初からまるで他人事だった。
交通事故だった。病気ではなかっただけに苦しんでいるところを見ていない。冷たくなった父親を見た時、不思議と涙が溢れてきたが、泣く理由はどこにもなかった。
母は取り乱すこともなく、堂々としていた。渋滞のラッシュの中で落ち着いていた母親を思い出したが、イライラしていたはずの父親がその場で冷たくなっているのは、何という皮肉なことであろうか。
通夜に参加すると、皆賑やかだった。
――人が死んだというのに――
と、少し白状な気がしたが、
「皆で騒いで故人を偲び、賑やかに送り出してやろうというのが通夜の主旨なんだよ」
と父親の上司に当たる人に教えられて、
――なるほど――
と感じたものだ。
その時に初めて日本酒を口にした。熱燗というよりも、湯飲みに冷で呑んだんだっけ。つまみのかまぼこがおいしかったのを覚えている。
――父親がいたから自分がいるんだ――
と初めて感じた。遺影には楽しそうに微笑んだ父の顔が写っている。それは子供の頃に感じた楽しかった父親だった。二度と帰ってこないと思うと不思議な感じがして、さっき聞いた通夜の意味を思い出していた。
「皆で騒いで故人を偲び、賑やかに送り出してやろうというのが通夜の主旨なんだよ」
酒が入って初めて酔っ払ったが、日本酒は思ったよりもおいしかった。そういえば、あれから日本酒は飲んでいない。何かがある時だけ日本酒を呑もうと思っていたからに違いない。
「タマゴが先かニワトリが先か」
と言われて、すぐに父親を思い出したのも、皮肉なものである。ママさんが渋滞の話を持ち出さなくとも、父親のことを思い出すのは必然だったに違いない。
ママさんは、緒方の話を聞いて、
「渋滞というのは、軽い上り坂から始まるらしいんですよ。テレビで言っていたんですけどね」
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次