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短編集114(過去作品)

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 ママの声が明るく響いた。店内はクラシックが流れていて、スナックというよりも喫茶店の雰囲気すら感じられる。ママの声が響いたからなのか、最初は暗いと感じた店内が次第に明るくなってくるのを感じた。
 自然にカウンターの中央に腰掛けた。奥の男とは座席が三つほど離れている。たった三つなのに、結構離れているように感じたのは、男があまりにも一人の雰囲気を醸し出していたからだ。
 一人で寡黙に飲んでいるのが、これほど目立つとは思わなかった。席に座った緒方にお絞りを差し出すママの表情が、幾分かこわばっているようにさえ感じられる。
「何になさいますか?」
「じゃあ、まずはウイスキーを」
 お絞りで手を拭きながら、カウンターの奥にある陳列棚を見ていた。こじんまりとした陳列棚にいくつものグラスが綺麗に光って並んでいる。カウンターに座って正面を眺める光景、これが前から想像していたスナックの印象だった。
 隣の男が何かを口ずさんでいる。
 スナックにはこういう客はいないものだと思っていただけに、却って気になってしまう。無視すればいいのだろうが、緒方よりもママの方が男を気にしているらしく、緒方に集中していないようだ。
――どうしてこんな店に入ってしまったのだろう――
 と考えたが、後の祭りだった。
「お勘定」
 男は急に頭を上げると、ママにそう言った。初めて顔を見たが、それほど酔っ払っているようには見えない。酔いが覚めてきたところで帰ろうというのだろうか。
 年齢を察するのは難しかった。呑んでいる時もすっと俯いていたし、出て行く時も帽子をかぶっている。少しよれよれの薄いジャケットに、これも中途半端に伸びた無精ひげが、どこか芸術家を思わせた。
 最後にママに軽く会釈し、ママも同じように会釈で返す。常連客なのはその行動を見れば分かった。
 男が出て行くと、急に部屋が広くなった。心なしか明るさも出てきたよう思う。
――店の雰囲気に慣れてきたのかな――
 時計を見ると、店に入ってから二十分ほど経っている。自分が感じていたよりも時間の進みが早いようだ。
「初めてのお客様ですよね」
 ママから話しかけてきた。
「ええ、今までは居酒屋に寄ることはあっても、スナックに来ることはなかったんですよ。ちょっと緊張しています」
 子供のようなはにかみを感じながら、苦笑いをした。
「お友達は同僚の方ともスナックに寄られたことはないんですか?」
「ええ、居酒屋ばかりだったものですから」
「そうなんですか。だいぶ雰囲気が違いますでしょう?」
「自分が考えていたイメージに比べてこじんまりとしているので、少し驚いていますね」
「スナックはどこでもこんな感じですね。アットホームな感じではないのですが、常連の皆さんは店に入ってこられる時は、ただいまって言って入ってこられますね」
「自分の家のような感覚なのかしら?」
「それとはまた違うんでしょうね。そう、まるで自分の秘密基地のような感じなのかしらね」
「何となく子供っぽい発想ですね」
 どうも苦笑するような話が多い。それだけ想定外の話しなのだろうが、新鮮でもある。
「子供っぽい方が多いですね。ここに来れば子供に戻ったようになれるとおっしゃるお客様もいらっしゃいますね。皆さん。それぞれ自分の居場所を探していらっしゃるんでしょう。ここが本当の居場所だとは誰も思っていないんじゃないでしょうか?」
 自分の居場所というのを考えることはあまりなかった緒方だった。まだ独身で、彼女がいるわけでもなく、普段は会社と家の往復。家に帰っても誰と話をするというわけでもなく、ほとんどが自分の部屋である。
 自分の部屋にいる時はテレビばかり見ている。最近ではテレビはついているだけで、ブラウン管に写っている番組を漠然と見ているだけである。ゴールデンタイムにバラエティが多いのは、緒方のように家にいる時にあまり考えたくないと思っている人が多いからではないだろうか。最初はバラエティも冷めた目で見ていたが、最近は殺風景にならないようについているだけである。学生時代は音楽を聴いていたが、最近の音楽にも興味が薄れてきて、音楽を聴くことも少なくなった。
 元々音楽を聴いているのも、聞きながら思い出の中を掘り返して、懐かしさに浸るためだった。同じ曲をずっと聴くのも食事の趣味と同じで飽きるまで聴いている。それだけはまって聴いていた時代の思い出は濃く残っているのである。
――まるで年輪のようだな――
 と感じたこともある。
 年輪は面白いもので、どうして性格に一年単位で刻むことができるのだろうか。もっとも一年というのも太陽の周期を下に作った人間の生活単位の一つである。自然の中で生きる植物が持っている本能に、一年という周期があっても不思議はないだろう。月を単位にするのか、太陽を単位にするのかで若干の違いはあるが、暦というのは本当に神秘的なものである。
 いろいろなことを思い浮かべながら自分の居場所を考えていると、スナックの店の雰囲気が初めて来たのではないような錯覚を覚えた。
 ママの雰囲気に馴染みを感じるのか、それとも店の調度が感じさせるのか、はたまた、ウィスキーの後口がイメージさせるのか分からない。
 ママを見ていると母親のイメージはまったく湧いて来ない。シースルーのセクシーなドレスは、一見高価に見えるが、それも調度の関係ではないだろうか。スナックというところは、調度が命だと聞いたことがある。
「明るさを変えることで、ママは女の子を綺麗に見せるのもスナックのテクニックなのかも知れないな」
 居酒屋で一緒に呑んでいた時に同僚から聞いた話だった。
「うまくごまかされているのかな?」
 半分冗談、半分本気で答えた時、同僚は笑っているだけで何ら返答を返さなかったことで、
――スナックには自分の居場所はないな――
 と感じ、足を向けることがなかったのだ。
 だが、その日に足を向けたのは、小腹が減っていたからだ。それは最初に居酒屋に立ち寄った時のお腹の減り具合に非常に似ていた。最初に居酒屋に立ち寄った時の中の減り具合など覚えているはずもないのだが、その時は、
――まさしくあの時の感覚に似ている――
 と感じたのだ。
――前にも同じ感覚に陥ったことがある――
 と感じるのは、その時が初めてではない。だが、その時の感覚に気持ちが戻りたいと欲しているからだという思いは間違いなくある。そんな時にいつも近くに気持ちを思い出させてくれるものがあるのは、ただの偶然なのだろうか。スナックを見つけた時に、入ろうとかが得たのは、ごく自然な感覚だったのだ。
 中に客は誰もいないと思っていた。
――前にも同じ感覚に陥ったことがある――
 と感じた時の予感というのは、ほぼ百パーセントに近い確率で当たるものなのに、扉を開けて人がいたのには、驚かされた。
 挨拶がてらの会話が一段落すると、ママさんは洗い物を続けた。緒方はそんなままの姿をじっと見つめていたが、その時は見つめているだけでホッとした気分になれた。
――素直な気分になっているのかも知れない――
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次