短編集114(過去作品)
信子は完全に萎縮してしまった。だが、心の中では自分が悪いことを言ったとは思えなかった。確かに母親の言うとおりかも知れないが、それも人間のエゴ、自分たちも人間なのだから、人間の味方なのは当たり前で、それが大人の常識なのだと、自分を納得させるだけで精一杯だった。
その時の精神的なショックは意外と尾を引いていて、何かあるごとに、母親の言動を気にするようになってしまった。
それは母親だけではない。父親に対してもそうだった。どこか逆らいたくなるような言葉を捜して、自分の中で葛藤させていた。それが、親に対して向き合う自分だったのだ。
親の言うことを素直に聞く子供だった。だが、そんな自分に苛立ちを覚えていた。素直に従わなければならないわけを模索していたと言ってもいい。逆らうだけの勇気がないのだから、自分の中で納得させなければならない。それが両親への心の中での確執だったのだ。
それは肉親に対してであって、友達に対してはそこまでの気持ちはない。
「所詮は他人だ」
という気持ちが強いからで、何か不満があっても、考えないようにすることで自分を納得させてきた。それが、信子の性格を形成してきたのである。
どこか冷めた目で見るのはそんな性格からの由来である。それを知っている人は信子以外の何者でもない。
会社を辞めた信子は、しばらくは職についていなかった。市街地にある図書館へ出かけては本を読んだりしていたが、そのうちに自分を見つめるつもりで、自分が見えなくなっていることに気づいた。
「やはり働かないといけないんだわ」
何をしていいか分からない。とにかく誰かに奉仕してみたかった。それが本心からできるものなのか、奉仕をする心が芽生えるとはどんなものなのかを知りたかったからだ。
風俗という職業に偏見はなかった。男性の視線がどんなものか想像もつかなかったので、少し怖い気もしたが、その時の信子の精神状態から考えれば、決して尻ごみするものではなかった。
個室で男性にサービスをする職業はさすがに露骨なものがあるが、思い切って飛び込んでみた。
思っていたよりも怖いものではない。男性にしても、女性にしても、異性を求める心境は素直な気持ちである。それを否定したくなかった。
実際に初めてお客さんと接してみると、相手もドキドキしているのが分かるし、自分も思っていたよりもドキドキしている。緊張しているわけではないので、心地よさもあった。
男性は思ったよりも優しかった。本当はこちらがサービスをする立場なのに、いろいろ気を遣ってくれる。
「女性と本当は普通に仲良くなりたいんだけど、どうしても話しかけられなかったり、話題が噛みあわなかったりするんだよね」
お客の男性はそう言って、苦笑いをしている。
――可愛い――
他人を初めて可愛いと感じた。そして、相手の可愛いところを見つけて嬉しく思っている自分も可愛いと感じていた。
仲良くなれそうな予感があったのは事実だが、所詮は時間内での恋人気分、その甘い気持ちをぶち破るインターフォンが鳴った。
「では、また来てくださいね」
その時の彼は何度か指名してくれたが、最初のような感動はなかった。二人目からの客と同じで、ただ相手に奉仕するだけの感情になってしまっていた。それでも奉仕することが嫌いではないので、OLをしていた頃よりも楽しかった。本当の自分を見つけた気がした。
だが、客の中には露骨に風俗嬢を見下す人も少なくはない。もちろん、覚悟をして仕事をしているつもりだった。それでも、中には本当に我慢できない客がいるもので、最後は客ともめてしまった。
――やっぱり私にはできないわ――
店側からは、客ともめてしまった女の子への対応は難しいようで、なだめるしかなかった。
「これからは気をつけてもらわないとダメだよ」
信子はどちらかというとリピート率はよかった。
「彼女は、風俗にいるのはもったいないほどの気品のようなものがあるな。それでいて高飛車なところはなく、奉仕の心っていうのを知っているんだ」
店側では指名してきた客にアンケートを取っているようで、信子への印象は総合すると、このような意見になる。
そんな女の子を店側も辞めさせたくはないのだろう。あまりきつく叱らなかった。
実はそんな態度も信子にはありがたくなかった。まるで自分が皆に気を遣わせているようで、初めて店に入ってから気を遣うということを思い出した。
客と接している時は、素の自分を出せた。それが人気の一つだったのだろうが、一度気を遣っているまわりが見えてしまうと、どこか自分の中で我に返るようだった。
「せっかく、皆さんとも仲良くなれたんですが」
「そう? じゃあ仕方がないな」
店側もこれ以上引き止めるわけには行かないと思ったのか、素直に応じてくれた。信子はまたしても、無職になった。
少しの間、ゆっくりしたかった。
図書館に出かけて本を読んだりクラシックを聴いたりしたが、何かが物足りない。働いている方が、生活にリズムがあるのか、気が抜けてしまうと、またしても余計なことを考えてしまうようだ。
気持ちに余裕が戻ってきているはずなのに、なぜかポッカリと身体の中に大きな穴が開いてしまったかのようだ。そんな時だった。
「うちで働いてみない?」
と声を掛けてくれたのが、たまに寄っている喫茶店のママさんだった。
風俗に勤めている時から寄っていた喫茶店だったが、辞める前と、辞めてからの二人の信子を知っている。
「やっぱり、信子ちゃんは働いていた方がいいみたいだから」
と言ってくれた。
「誘ってくれてありがとうございます。じゃあ、働いてみようかしら」
とその気になった。実は喫茶店で働いてみたいという願望は以前から持っていたのだった。
喫茶店は、早朝から深夜までやっているので、シフト制になっていた。信子は、なるべく早朝に入るようにしていたのだが、それは朝が好きだったからである。
だが、実際に入ってみると、想像していた雰囲気とはだいぶかけ離れていた。出勤途中で立ち寄るサラリーマンは、誰もが寡黙で、なかなか誰も口を開こうとしなかった。
OLをしていた頃を思い出してみた。信子も朝の喫茶店でモーニングサービスを食べたりしたことがあったが、考えてみれば、誰も話をする人もいなかった。朝の時間を黙々と新聞でも読みながら過ごしているだけだったのだが、客という立場から離れてみると、これほど暗い雰囲気だったとは想定していなかった。
それでも、中には信子に話し掛けてくれる男性がいた。
彼は信子と会えるのが楽しみで、毎朝寄ってくれているということを、あっけらかんと話すのだった。
――きっと会社で誰からも好かれる人なんだろうな――
誰に対しても分け隔てなく接する人という印象が強い。こちらも却って意識することなく接することができるのが嬉しかった。
そのうちに、信子を目当てにやってくる客も増えてきて、次第に早朝の時間帯でも会話が生まれるようになってきた。
「あなたの持って生まれた性格なのかも知れないわね。羨ましいわ」
早朝の時間帯の主任はそう言っていた。額面どおりに受け取っていいのか戸惑いもあったが、嫌な気はしない。
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次