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短編集114(過去作品)

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 そんな西郷が挑んだ最初の激戦地「田原坂」、思いを馳せながら、列車は熊本へと入っていく。熊本からは、豊肥線で阿蘇駅まで行き、阿蘇駅から温泉へと入っていく。このあたりにはたくさんの温泉があり、効能もさまざまである。ちょうど律子の行った温泉は、あまり人に知られていない温泉らしく、そんな温泉を無意識に最初から探していたようだった。
 宿までは小さなマイクロバスで行ったが、話を聞くと、その日の宿泊は、もう一人補正客がいるということであった。
 宿についてその話を聞くと、彼女は常連のお客さんで、熊本から定期的にやってきているそうである。何か病気を持っているらしく、入退院を繰り返している、その合間にこの温泉に療養に来るのだそうだ。
 宿は別に特殊な雰囲気はなく、特徴もこれといってない。木造のせいか、木の香りを感じる。
「木の香りが素敵ですね」
 というと、
「ありがとうございます。でも私たちには慣れきってしまっていて、あまり感じることはないんですよ」
 と話している。少し残念な気分だ。
 さらには、コーヒーの香りもしてくる。どこかでコーヒーを作っているわけではないのに、どうしてコーヒーの香りがしてくるのか分からないが。コーヒーの香りは、神経を落ち着かせてくれる効果があるのか、とても落ち着ける。初めて来たのに、初めてではないような予感があったのは、コーヒーの香りのせいだろう。
――この感覚、以前にもどこかで感じたことがあったな――
 確か、傷心旅行に出かけた宿でも、同じように
――以前どこかで――
 と感じたのを思い出した。その時には分からなかったが、何か懐かしい香りを感じたのを思い出した。コーヒーの香りではなかったが、どうやら、木製の床に塗られた油のような匂いだったように思う。決していい匂いとは言えないが、懐かしさを感じさせる匂いである。
 温泉に浸かっていると時間を忘れられる。
「そろそろ上がろうか」
 と思ったその時、誰かが入ってきたのを感じた。上がってもよかったのだが、そのまま温泉に浸かっていると、今度は、コーヒーの香りが次第に激しくなり、身体が思うように動かない。身体が痺れてきてこのまま動けなくなってしまうと感じた。
 気がつくと、部屋の布団の中に寝かされていた。どうやら宿の人に助けられて布団に寝かされていたようである。
「どうしたんですか? 私」
「温泉でのぼせてしまったようですね」
「もう一人の方が助けてくれたのかしら?」
「いえ、お客様お一人でしたよ」
「え? でも、もう一人お客さんがおられるとお聞きしましたけど?」
「宿泊予定であったのは確かなんですが、実は彼女、今日の夕方病院で息を引き取られたそうなんです。ちょうどお客さんが温泉に入っていた時間ですね」
 それを聞くと律子の身体からコーヒーの香りが沸き立つのを感じた。
「この宿はコーヒーが名物なんですか?」
「名物というわけではないんですが、先ほどお話に出たお客様が、自分専用のコーヒーをお持ちでしたね。よく、香っていました」
「私の身体から香っているような匂いですか?」
 宿の人は少し怪訝な表情になり、
「いえ、お客様からは、コーヒーの香りはしませんけど」
 と少し訝しがった。
 その日の夕食は豪華であった。それまでの少食がウソのように、いくらでも入った。その間にコーヒーの香りが身体から湧き出していたのを、どうやら誰も知らないようだ。

                (  完  )

作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次