短編集114(過去作品)
サラリーマンもいれば家族連れもいる。やはり博多と熊本は遠いようで近いのだろう。
「福岡と熊本だと言葉が全然違うわよ。福岡の人にも熊本の言葉を早口で言われたら、何を言っているのか分からないもの」
という言葉が返ってくる。
その人は福岡で学生時代を過ごし、東京へ出てきた。ずっと東京に憧れを感じていたので、博多は田舎だという意識を持っていたらしいが、それでも東京に出てきてしばらくはカルチャーショックを感じていたという。
「それほど、地方と都会の格差ってすごいものよ。それも住んでみないと分からないかも知れないわね」
と言っていた。田舎に住んでいる時期があったが、それも小さい頃で、都会に憧れることはあっても、実際に住むことをイメージしたことはないので、それほどの感情か分からなかった。
実際に遠くまで出かける旅行は久しぶりで、田舎だと思っていた九州の特急列車の乗り心地のいいことに感動した。揺れも少なく騒音も感じない。窓の外を駆け抜けていく光景は、自分が移動してるわけではなく、表が動いているだけだという錯覚を感じさせる。ゆったりとした座席も感じ方に拍車を掛けた。
列車が走り出して、十分もすると、景色は一変する。一気に田舎の光景を彷彿させるが、また少し走ると、少し家や、店が目立ち始めてくる。道の反対側には山が迫ってきていて、カーブが続いているようだった。
走り出して二十分もすると、鳥栖に到着、長崎方面への乗り換え駅である。
鳥栖駅のまわりには、結構広い土地が余っているのを見て取れるが、その真ん中にスタジアムが建っていて、そこがサッカーグラウンドであることは、看板を見れば分かった。実に交通の便がいいところだが、観客が入るのかどうかは別である。あくまでも地元の、
「おらがチーム」なのだろう。
鳥栖から久留米はそれほど遠くない。新しくできる新幹線の駅も増設されるらしく、駅構内は改造の真っ最中だった。そういえば、博多駅も改造の真っ最中らしく、いたるところで、仮店舗が営まれていた。きっと熊本駅もそうなのだろう。
熊本に住んでいたという友達もいたが、その人に聞いた話によると、熊本駅周辺はそれほど賑やかではないらしい。熊本城の近くまで行くと、大きな商店街が広がっていて、その奥に交通センターができていて、そこに百貨店があったり、数社のバスが乗り入れていて、交通の便からしても、そちらの方が便利がいいという話であった。
熊本駅に着くと、確かに駅前にはさほど観光名所があるわけでもなく、人が多いわけではない。駅ビルの中に幾分かの店があるが、それだけであった。新幹線が開通すると、もう少し目立つのだろうが、博多駅同様、今はその全貌が見えてこない。
久留米を過ぎてから、ほとんどが田舎の光景であった。広大な筑後平野が広がっていて、大牟田を過ぎてからは、カーブも多く、山間を走りながら、気がつけば熊本県に入っていく。
途中には有名な田原坂もあるらしいが、列車に乗っていては意識できるものでもない。熊本に住んでいた人も言っていたが、田原坂には幽霊伝説があるらしい。
「あれだけの戦場だったんだから、そんな話が出てきても仕方がないわね」
と話していた。
田原坂というと、国内最後の内戦と言われた「西南戦争」の激戦地、映画化されて、ビデオやDVDも出ていることだろう。歴史に造詣の深い律子も話には聞いていたが、亡霊が出るのであれば、さすがに怖い。思ったよりも律子は怖がりで、それを知っているのか、面白がって友達はさらに話を吹き込もうとする。
元々西南戦争は、明治の元勲、西郷隆盛が主人公である。
徳川幕府を倒すことによって成立した明治政府。その中心には、立役者である長州藩、薩摩藩の重鎮が座ることになる。西郷隆盛もまだできて間もない明治政府の軍隊を仕切る立場にあった。
イギリスやフランスの軍隊から手ほどきを受けていたのだろう。西洋風の軍隊を作り上げようとしていた。
考えてみれば、中国を初めとしたアジアの国が欧米列強から次々に植民地にされる中である意味日本は独立国家として生き残ったのは運がよかっただろう。だが、それでも開国させられたいきさつや、なかなか納得の行かない不平等条約への不満、さらには急激な改革で、それまで政治の中心であった武士たちの生活が根底からひっくり返るような世界になってしまったことは、政府にとっても悩みの種だったであろう。
それも、欧米に接近しなければ、生き残っていけないという日本の事情もあったのだろうが、武士の不満は各地で燃え上がってくる。
それでも改革を急ぐ政府にはなすすべがなかったが、そこで浮上してきたのが、西郷隆盛らが推奨する「征韓論」という考えだった。
武士の生活を潤わせるために、目を海外に向ける考え方である。まずはそのさきがけをして上げられたのがお隣の国である韓国である。
当時韓国は鎖国をしていた。元々の日本と同じである。
しかも中国王朝であった清国の属国状態であった。独立国でありながら、清国には日本で言う年貢のような上納をしていたのである。
韓国への出兵にはもう一つの考えがあった。
不平がたまっている武士の気持ちを中央政府からそらせようという考えである。
「今のままでは改革どころではない」
西郷隆盛は一番兵士に接している立場である。彼らの不平を何とかしなければいけないことを一番分かっている立場である。
しかし政府内には、征韓論を時期尚早と見る目があった。その代表が、西郷隆盛と同じ薩摩藩出身の大久保利通である。
元々薩摩藩の重鎮は、維新の前から結束がある。これは長州藩にも言えることであるが、長州藩の場合は同じ学校で学んでいたという学生が多い。特に吉田松陰の松下村塾であったり、長州の名門「明倫館」であったりするが、薩摩藩の場合は、幼馴染だったりが多い。
そういう意味で薩摩藩は小さい頃から知っている仲なので、相手の考え方の根底を分かっていたりするのだ。
西郷隆盛が。維新の中心となって国内を纏めている立場にあるとすれば、大久保利通は海外留学があったり、中国や周辺諸国を勉強したりと、外に目を向ける方針が多かった。
西郷隆盛は強硬派でもあった。徳川幕府を完膚なきまでに消滅させて、新しい時代を作るという考えだったので、ある程度強引であったり、情け容赦のないところもあった。そのために外に目を向けるという考えは大久保利通に及ばなかったに違いない。
結局西郷は自分の意見が通らずに、政府を辞職、そのまま鹿児島に帰ってしまう。引退して平穏無事に暮らしていたが、それもそう長くは続かない。
明治政府の改革は武士を圧迫し、ストレスや不満は爆発寸前だった。
彼らは西郷を頼り、明治政府への不満の直訴を模索する。西郷も、それに乗ったのだが、彼は自分が作った軍隊に、自ら反旗を翻すことになるのだ。
――西洋風の軍隊、そして物量も分かっていたはずなのに、なぜに西郷は挙兵したのか――
この考えの答えは、
「西郷は死に場所を求めていたのかも知れない」
という考えを浮上させるに至った。
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次