短編集114(過去作品)
野球選手などが多いのだろうか。プロの選手が来るには少し寂しすぎるし、それであれば、もっと宣伝があってもよさそうだ。玄関からロビー、そして廊下と歩いていてサイン色紙がないことで、やはりプロの選手が来ることはないだろう。
部屋に入って表を見ると、海が一望できる。今まであまり海に対して何とも思っていなかった律子だったので、部屋から見える海にもそれほどの感情はなかった。浴衣に着替えて目的の露天風呂に向ったが、それほど大きな期待もなかった。
それでも温泉に浸かりながらの光景は、
「しばらく、このまま眺めていたいな」
と感じさせるに十分だった。
「初めて来たはずなのに」
と感じていたが、以前にも同じ光景を見た記憶がある。もちろん、雑誌を見ることでくる気になったので、
「雑誌で見たから」
ということなのだが、雑誌を見た時にも、何か不思議な感覚があった。それが
――初めて見た光景ではない――
とう意識だったのだということを、景色を生で見て気がついたのだ。
実際に絵になる光景である。
絵画が好きだった時期があった律子は、絵で見たことがあったのかも知れない。無意識に見ていたので、絵で見たものか、写真で見たものか、その時は頭の中で一つにすることができなかったのだろう。
一泊だったので、実際に温泉でゆっくりできたわけではない。それに温泉でゆっくりして身体がなまってしまうのもあまり好きではなかった。若さゆえか、一人でいるのもすぐに辛くなる。特に短大のように、必ずまわりに誰かがいるのを意識しながら生活している感覚が身についていると、なかなか抜けられないでいた。
その時、宿泊客は律子だけだった。初めで最後だと思っていたこの温泉だったので、その時はあまり意識することもなかった。
それから十数年経って、思い出してしまった。
思い出したというのもおかしいかも知れない。ずっと心の奥で燻っていた記憶が、ふとした時に表に出てきた。時々、この温泉のことを思い出していたのも事実だった。
別に楽しい思い出があったわけでもない。そして強烈なインパクトがあったわけでもない。どちらかというと、一泊だったので、何か中途半端な気がして、それが気になって思い出そうとしていたのかも知れない。
最近の律子は体調が悪い。どこが悪いといって、ハッキリ分かっているわけではない。本当は病院で見てもらうのがいいのだろうが、そこまで悪くなっている感覚もない。
そこで思い出したのが、この温泉だったのだ。
OLを初めてから食生活のバランスが崩れてきた。朝食を摂ることもなく、昼食も午後三時くらいが毎日の平均だろうか。夕食はさらに遅く、午後九時くらいである。食事をしてしばらくすると睡眠時間になってしまう。一日二食で、食事の時間も後ろにずれ込んでいるのだから、たまにおかしくなっても仕方がない。
最近は、お腹が減っていても、なかなか食べられない。意が小さくなってしまっているのは分かっている。何とか食べても、すぐにしゃっくりが出てきて、泊まらなくなってしまう。結構、しゃっくりもきついもので、体力が消耗してきて、お腹の調子が悪くなるという悪循環を繰り返していた。
短大の頃までは、一日三食ちゃんと摂っていた。
学校の近くにある喫茶店でモーニングサービスを食べていた。本当は家で食べればいいのだろうが、起きてから二時間くらいは気持ち悪くて食べる気がしない。
高校の頃までは親元で生活していたので、嫌でも朝食は食べさせられた。その頃から朝ごはんが苦痛だった。
家の朝食は日本食で、必ずご飯に味噌汁、たまに卵焼きか目玉焼きを焼いてくれる。
高校の頃までは親に逆らうことのなかった律子にとっては、本当に苦痛だった。嫌な顔もできずに気持ち悪いのを分かっていて食べなければならなかったからだ。
ご飯を味噌汁で流し込む。そんな食事がおいしいわけもない。学校に行っても、十時すぎくらいまでは気持ち悪さが残っていた。しかし、その気持ち悪さが残っても、すぐにお腹が減ってくる。昼休みまでは、今度は空腹で苦痛だった。
若いから仕方がないと思っていたが、その考えは間違いではなかった。だが、同じ腹が減っていても、二十歳を過ぎてからの空腹感とは若干違っている。同じような空腹感であっても、二十歳を過ぎればある程度我慢ができるものだ。それだけ空腹感というものに慣れてきたのかも知れない。
短大は、家から少し遠くになる。最初は家から通っていたが、朝が早く帰りは九時近くなることから、一ヶ月で我慢の限界に達していた。元々一人暮らしに憧れていたので、何とか親を説得して、学校の近くの学生アパートを借りることで、納得させたのだ。
学校の近くにある喫茶店は、朝の七時から開いていた。コーヒーの香ばしい香りが表にも漂っていて、中に入るとクラシックの落ち着いたメロディがありがたかった。朝なので眠くなってしまいそうになるが、それでもコーヒーの香りが脳に与える刺激によって、眠ってしまうことはない。一日の始まりを演出する空間として、律子自身は結構気に入っていた。
木目調の店内は、冬でも暖かかった。
そういえば、喫茶店のイメージは夏の雰囲気よりも冬の雰囲気の方が鮮明に残っている。
冬の方がいい匂いを醸し出していたし、店内には香りを彷彿させる湯気が漂っている。そんな雰囲気に暖かさが滲み出ていて、
「これこそが喫茶店」
と唸ってしまうほどだった。
実際にコーヒーはおいしかった。高校の頃までは苦いだけだと思っていたコーヒーなのに、まさか好きになるとは思わなかった。
「コーヒーは大人の飲み物よ」
と母親が言っていた。その言葉を小学生の頃に聞いた律子は、実際にそう思い込んでいたのである。
自己暗示に掛かりやすい律子だったので、その言葉を全面的に信じていた。高校の頃まではコーヒーがおいしいという友達の話を聞いて、
「コーヒーが飲めるなんて、大人なんだわ」
呑めない自分が普通だと思っていたので、飲める人にはある意味尊敬の念を抱いていた。たいそうな尊敬ではないのだが、一度抱いた尊敬の念は、そう簡単に払拭できるものでもなかったのだ。ことあるごとに、その人への意識の中から消えずに残っている。
喫茶店での時間は、いつも一時間くらいだっただろうか。学校まで二駅電車に乗って通っていたが、たった二駅でラッシュにあうのも癪だった。
最初は、
「そんなに早く学校に行ってもしょうがない」
と思って、我慢してラッシュに乗っていたが、あまりにもひどく、下手をすると、乗ったら最後、人に押されて、降りることが困難な時が多かった。さすがに降りれないことはなかったが、朝からここまで疲れる毎日は勘弁してほしかった。
駅前に喫茶店があったのは知っていた。それまで一度も寄ったことはなかったが、雰囲気は気になっていた。
朝寄る気にならなかったのは、
――朝食はきついものだ――
という意識があるからで、モーニングサービスを意識することはなかった。だが、暑い夏も終わって、急に寒さがこみ上げてきた頃、喫茶店から漂ってくるコーヒーの香りに誘われたのだった。
作品名:短編集114(過去作品) 作家名:森本晃次